【『肌』 ー麗と響の往復書簡ー】- 響(santuario)東京/性感マッサージ

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響の写メ日記

  • 『肌』 ー麗と響の往復書簡ー
    『肌』  ー麗と響の往復書簡ー

    この世界は

    "肌"から始まる。


    乳飲み子が親の乳房に触れ

    時に親の肌で作られる

    ミルクのぬくもりを想像すれば

    命そのものでさえも

    "肌"から始まると言っても過言ではない。


    とこのまま文字通り肌に触れる話を続けると

    少し官能的な書き物になりそうだから

    "肌で感じる"ということに注目したい。


    改めて今の時代背景を考えると

    肌で感じる機会は減った気がする。

    リアルで感じること 

    と置き換えたほうがいいだろうか。

    今はスマホ1台で

    臨場感ある音楽ライブを見たり

    世界中を旅した気分になることだってできるけれど

    それはあくまでも"したよう"になっただけだから

    嬉しくもなんとなく寂しい。

    たしかにコロナがそうさせている部分はあるけれど

    この感覚に慣れてしまっては

    生身の人間としての身震いするような喜びは

    薄れ感じられなくなってゆく。


    肌で感じるという言葉そのものの対義語は

    頭で考える、になるんだろうか。

    感覚が先に来るか理解が先に来るのか

    答えはないにしても

    今の時代背景を考えると

    ある意味思考を巡らしたりイメージすることが

    感覚よりも先行させられている気がする。


    肌で感じることがいかに素晴らしいことなのか。

    自分自身がよくわかっているから

    こだわるのかもしれない。


    みなさんは藤子ヘミングをご存知だろうか。

    "ラ・カンパネラ"が代名詞の彼女の名前は

    ピアノ経験者でなくても

    一度は聞いたことがあるはず。

    彼女のコンサートに

    実際に足を運んだことがあるけれど

    正直な話、驚くほどミスタッチがある。

    生より音源の方が

    技術的には圧倒的に優れているけれど

    それでも満員続きのコンサートらしい。


    そこにある、、

    というより

    その場所でその瞬間にしかない

    撮り直しが効かない一つ一つの音には

    彼女の生き様や壮絶な人生そのものが

    込められているからに違いない。


    あの日、あの広いホールの中で

    猫背気味の老婆の魂を

    この"肌"で感じたことは一生忘れられない。


    では

    貴女が肌で感じる瞬間は

    どんな時だろうか。


    都会から離れ

    自然の空気を体中で吸い込む瞬間?


    いつもはビデオ通話の家族と

    年末に直に顔を合わせて食卓を囲む瞬間?


    長い間DMでしか知らなかった人物と

    やっとの思いで会えた瞬間?


    直に肌で触れることと、感覚的に肌で感じることの

    両方の『肌』が女風にはあるわけだから

    他とは替えられないリアルを味わえる。



    この日記を書きながら

    よく祖母がこんなことを言っていたのを思い出した。

    『きよしはうまいんだけど、やっぱ三郎だわ。』

    『声が出なくても、深いんだよ、わかる?』


    そう言う祖母は

    普段は三郎のCDを聴きながら

    きよしのファンクラブイベントへ参加していた。


    ふぅ!肌で感じてるぅ。





    santuario 響




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