霜月と申します。
先月誕生日を迎えたのですが、たくさんの方からお祝いのメッセージを頂きました。どうもありがとうございました。お礼といっては何ですが、自分の妄想を小説にしてみました。よろしければ御笑覧くださいませ。
すみません。長いです。ほんとすみません。
では、どうぞ!
僕の名前は重千代。18歳。
この春から都内の私立大学に通う一年生。
学費を稼ぐために大学入学と同時に東京萬天堂に入店し、夜の時間帯を中心にセラピスト活動に励んでいる。
店では最年少なため、周りの皆さんからは弟のように可愛がられたりイジられたりしながら楽しく過ごしている。
今日は朝から軽い動悸がして、何だか気持ちが落ち着かない。原因はハッキリしている。今夜、大切なお客様との逢瀬が控えているからだ。
今夜のお客様は関西を中心に活躍されている実業家で、月に何度も出張や講演、テレビ出演のため東京にやってくる。テレビではコミカルな関西弁とピンク色を基調とした派手なファッションばかり注目されているが、実はヨーロッパの社交界では名の知れた人物で、政治家や王族の方々とも親交があるという。
僕とは住む世界が違い過ぎる。
気負うことなく自然に振る舞えれば良いのだが、これだけのセレブを前に平常心でいられるほど僕の心は成熟してはいない。
失態を晒すのが怖い。
きちんと振る舞わなければという気持ちが先走り、肝心のお客様の要望にまで気が回らなくなってしまう。
お客様からは、既に僕はドジっ子という評価が定着しているのだが、それは僕にとっては屈辱的な事で、なるべく早めに挽回したい気持ちも強くある。
夕方の講義が休講になったので、少し早めではあるけれど、僕は萬天堂のセラピスト待機室に向かうことにした。
大学のある神保町から紀尾井町にある待機室までは20分もあれば到着できる。秋の天気は変わりやすくて、日中は爽やかに晴れ渡っていた空も、夕方を前に雲が低く垂れ込めてきて今にも雨が降りそうだった。なんだか今夜の僕の運命を暗示しているようで、一層気持ちが滅入ってきた。
お客様から頂いた真っ赤なBianchiを駆って、少し急ぎ気味に白山通りを南に向かった。スピードは出しているが、転倒しないように、事故を起こさぬように、慎重に周囲の状況に注意しながらペダルを漕いだ。頬を切る空気が日に日に冷たくなっていく。
紀尾井町のオフィスビルの高層階に僕たちセラピストの待機ルームはある。一階でIDカードを提示しオートロックを解除して中に入る。エントランスでは、ダンディなコンシェルジュさんが恭しく僕にお辞儀をしてくださる。高級ホテルのホテルマンにも一歩も引けを取らないこの方の立ち居振る舞いを、いつか僕は全て身につけたいと思っている。
待機ルームは、およそ400平米の空間に、シャワールームやドレッシングルームが完備されていて、広々としたリビングルームにはソファセットや75インチのTVやトレーニングマシンも備えられている。
リビングルームは、普段はセラピスト仲間が、めいめいゲームに興じたり、トレーニングしたりして過ごしているが、今日はまだ時間が早いためか、それともみんな予約が入っているためなのか、セラピストは僕しかいなかった。
ロッカーに荷物をしまうと、まずシャワールームに向かい、汗ばんだ身体をキレイに洗い流すことが、いつもの僕のルーティーン。今日は時間に余裕があるからシャンプーも洗体も念入りにできた。オーラルケアもぬかりなく行なった。
シャワールームを出ると、ヘアメイクの久保さんが僕の事を待っていてくれた。久保さんにブローしてもらっている間、僕は念入りに爪を磨く。ブローが終わった後は、ヘアメイクと、今日は時間があるからシェービングと眉も整えて貰う事にした。
僕の近くで、スタイリストの矢野さんが腕組みしながら頭を捻っていた。入店時にトムフォードのスーツを3着オーダーで仕立ててもらったのだが、今夜の逢瀬に相応しいスーツとネクタイの組み合わせを考えてくれているのだった。
季節、天気、前回のコーディネート、あらゆる事柄を計算して、僕の服装が組み立てられていく。
色んな方の支えがあって、僕たちのセラピスト活動は成り立っている。
コーディネートが決まるまで、僕はバスローブ姿のままリビングでのんびり過ごすことにした。
いつの間にか窓際に人の影が見えた。僕と同じくバスローブを纏って、ブランデーグラスを片手に遠い目をして夜の街を眺めていた。
霜月さんだ。
霜月さんは全く微動だにせず、遠くを見つめながら固まっていた。心なしか、なで肩の傾斜がいつもよりキツくなっている気がした。
「あの人は、気にしなくていいからね」いつか先輩が忠告してくれた通り、僕は霜月さんに関わるのはよして、今夜の逢瀬のイメージトレーニングをする事にした。
カッシーナのロングソファに深く座って全身の力を抜き、ゆっくりと目を閉じる。身体をリラックスさせて、お客様が逗留されているお部屋に入室してからの流れを自分の頭の中に描いてみる。そこにはクールでスマートに振る舞う模範的なセラピストがいて、満足された様子のお客様がいる。妄想の中ではいつも成功したイメージしか沸かないのだが…このイメトレが実戦で役に立った事は一度もない。
所作、マナー、気配りといった接遇に関することは一朝一夕に身につくものではなく、その人の普段の習慣が如実に現れる。大袈裟に言えば、セラピスト活動というものは、その人の生き様がそのまま反映されているようなものだ。そう考えると僕のような人生経験の浅い若輩者は、はじめっから不利な事だらけに思えた。背伸びして無理に大人の振る舞いを真似てみても、すぐにボロは出てしまう。予約時間内には、全く予期しない想定外の出来事が起こることがままあるが、臨機応変に立ち回ることも僕にはまだまだ難しい。未熟さを売りにすることもできなくはないが、それは何となく僕の自尊心が許さなかったし、お客様の幅を狭めてしまう事になる気がした。考えれば考えるほど、この世界で成功する自信が失われていく。
とりあえず、前回よりも笑われる回数を減らそう。
僕は今夜の目標をかなり低く設定した。
隣のオペレーションルームから何やら慌ただしそうな物音が聞こえ、やがて僕に向かって内勤さんが小走りに走ってきた。
「重千代、今夜のOさんスタート少し早くなった。行けるな?」
「あ、はい。行けます。大丈夫です。」
良かった。早めに準備しておいて。
でも正直、もう少し待機していたかった。
不安な気持ちを散らすには、まだまだ時間が必要だったんだ。
程なくして、控え室から出てきたドライバーの中嶋さんが僕に声を掛けた。
「重千代、今日はお前に車を選ばせてやるよ。あ、でもレクサスは3台とも出払ってるから、ベルファイヤーとエル・グランドの二択だな。どっちにする?」
「あ、じゃあ、エル・グランドでお願いします」
「そうか!『販売のトヨタ』よりも『技術のニッサン』を選んだな。セラピストとしては正解だぞ♪」
中嶋さんは満足気に、そう話した。正直、車の事は詳しくなくて、発音しやすいためエル・グランドを選んだだけだった。
ホンダ派の中嶋さんは、オデッセイの購入を事務局に進言しているらしいが、断られ続けているという。
一通り身支度を済ませて、いよいよ出動の準備が整った。先程までのリラックスした気分は打ち捨て、セラピストのモードに切り替えた。僕は大きな姿見の前で様々なポーズをとってみて、髪型やスーツの着こなしをチェックした。無駄とは思いつつ表情や目つきの練習もいくつか試してみた。
少し早めに地下駐車場に降り、アイドリング中のエル・グランドに向かう。中嶋さんは早めにエンジンをかけて、僕のために室温などの環境を整えてくれている。
黒いボディに合わせた黒いホイールキャップの中央には、控えめではあるけれど、金色で「萬」の文字が施されている。
僕たちの送迎に用いられているエル・グランドは通常の3列シートとは違い、4人乗りのVIP仕様。走る執務室とも形容された最高級のミニバンで、後部座席はパワーシートになっており、航空機のファーストクラスとも遜色ない乗り心地となっている。
でも、僕が後部座席に乗ることは、まだ当分ないと思う。若手は助手席に乗ることが何となくお店の不文律になっている。僕としても、実績を積んでもいないのに後ろの座席に座る事は、何だか決まりが悪い。
さっきからインカムで事務局とやり取りしていた中嶋さんが、僕に向かって言った。「重千代、東京出張に来てる大先輩も、方向一緒だから同乗する事になったんだ。出発もうちょっと待ってな」
萬天堂のセラピストさん達は、エリアを限定して活動している方がほとんどだが、中には全国各地に出張で飛び回っている方もいらっしゃる。東京から遠方に赴く方もいれば、逆に遠方から東京に出てくる方も多くいらっしゃる。きっと、いろんな土地にお客様を抱えているのだろう。まるで人気スターが日本縦断ツアーをしているようで、僕はいつも羨ましく思っている。
やがて、遠くから長身のオジピさんが満面の笑みでこちらに向かってくるのが見えた。
甲府店のトップランカー、田原さんだ。
田原さんは、還暦過ぎとは思えない軽い身のこなしで、高笑いしながら車に乗り込み、慣れた手つきでシートポジションを自分用に整え始めた。
思いがけずビッグな方と出会えて、僕は緊張で挨拶以外何も話せなかった。
そしてまた1人、今度は眼光鋭いイケメンセラピさんが車に近づいて来た。
枚方店のトップランカー、岡田さんだ。
岡田さんの身体は格闘技で鍛え上げられていて、かなり筋肉に厚みがあることがスーツ姿でもよくわかった。歩く姿や立ち居振る舞い全てに華があって、惚れ惚れするほど美しい。
ビッグネーム2人を乗せて、僕達のエル・グランドは、それぞれの戦地に向けて走り出す。
駐車場を出ると、案の定、街はひどい土砂降りだった。でもどんなに強い雨が降ろうと、中嶋さんの運転は晴天時と全く変わらず安定している。
車は三宅坂の交差点を右折し青山通りから内堀通りに入る。道路の左側には桜田濠が広がる。土砂降りの雨は弱まる様子もなく、路面の水たまりに車列のテールランプが反射して赤い影がいくつもできている。
皇居周辺は景観の関係で高層の建物は建てられない。だから、ここだけぽっかりと夜空が広く見える。この辺りを走っていると、真っ暗な荒野に放り出されたような、どうしようもなく孤独な気持ちに襲われる。今夜のような不安を抱えている時は尚更ネガティブな気持ちが強くなる。でも今は大先輩達も一緒だから、少しだけ心強い。
後部座席の大先輩達はダブルで、しかも宿泊で予約を請けているそうだった。これほどのトップランカーと豪奢な遊びをするなんて、一体どんな女性が2人を呼んだのだろう。きっと僕の事などは歯牙にもかけないだろうその人の事が、とても興味深く思えてきた。
僕達の車は、遠巻きにビル群に囲まれている形になっていたが、やがて煌めいた明かりに吸い込まれるように商業エリアに近づいて行く。
大先輩達は互いに言葉を交わすことはなかったが、2人ともリラックスしている様子だった。ダブルの場合、段取りなどの打ち合わせが必要に思えるが、そこは経験を積んだトップランカー同士だけあって、阿吽の呼吸でうまく進めていくのだろう。もしかすると、このダブル宿泊予約は定例行事のようなもので、お二人とももう慣れっこなのかもしれない。
日比谷交差点まで来ると、僕は気持ちのギアを一段上げた。ここを右折すれば帝国ホテルはもうすぐだ。
エル・グランドは僕を下ろした後、八重洲方面に周りブルガリ ホテル 東京に行くようだった。
帝国ホテルの車寄せまで車は到着した。
もう後には引けない。
ここから先は何があろうと自分1人で解決していかなくてはならない。
大丈夫、とにかく落ち着いて事に当たるんだ。
車が停車して、パーキングブレーキが踏み込まれる。助手席のドアを開けると、一段と激しくなった雨音が僕を包んだ。
扉を閉め、先輩達に会釈をした。
先輩達は優しく微笑みながら軽く手を挙げてくれた。
「グッドラック」
助手席のウインドウを開けて、中嶋さんも優しく僕に声を掛けてくれた。
「行ってきます!」
努めて明るく挨拶し、僕は入口に向かった。
大丈夫、きっと大丈夫。
僕は自分に言い聞かせた。
もう、誰にも助けは求められない。
でも大丈夫。僕はプロだから。
僕が請け負った時間は、僕がデザインするんだ。
完
長々とすみません。最後まで読んでくださりありがとうございますお時間取らせてしまってすみません
霜月と申します。
先月誕生日を迎えたのですが、たくさんの方からお祝いのメッセージを頂きました。どうもありがとうございました。お礼といっては何ですが、自分の妄想を小説にしてみました。よろしければ御笑覧くださいませ。
すみません。長いです。ほんとすみません。
では、どうぞ!
僕の名前は重千代。18歳。
この春から都内の私立大学に通う一年生。
学費を稼ぐために大学入学と同時に東京萬天堂に入店し、夜の時間帯を中心にセラピスト活動に励んでいる。
店では最年少なため、周りの皆さんからは弟のように可愛がられたりイジられたりしながら楽しく過ごしている。
今日は朝から軽い動悸がして、何だか気持ちが落ち着かない。原因はハッキリしている。今夜、大切なお客様との逢瀬が控えているからだ。
今夜のお客様は関西を中心に活躍されている実業家で、月に何度も出張や講演、テレビ出演のため東京にやってくる。テレビではコミカルな関西弁とピンク色を基調とした派手なファッションばかり注目されているが、実はヨーロッパの社交界では名の知れた人物で、政治家や王族の方々とも親交があるという。
僕とは住む世界が違い過ぎる。
気負うことなく自然に振る舞えれば良いのだが、これだけのセレブを前に平常心でいられるほど僕の心は成熟してはいない。
失態を晒すのが怖い。
きちんと振る舞わなければという気持ちが先走り、肝心のお客様の要望にまで気が回らなくなってしまう。
お客様からは、既に僕はドジっ子という評価が定着しているのだが、それは僕にとっては屈辱的な事で、なるべく早めに挽回したい気持ちも強くある。
夕方の講義が休講になったので、少し早めではあるけれど、僕は萬天堂のセラピスト待機室に向かうことにした。
大学のある神保町から紀尾井町にある待機室までは20分もあれば到着できる。秋の天気は変わりやすくて、日中は爽やかに晴れ渡っていた空も、夕方を前に雲が低く垂れ込めてきて今にも雨が降りそうだった。なんだか今夜の僕の運命を暗示しているようで、一層気持ちが滅入ってきた。
お客様から頂いた真っ赤なBianchiを駆って、少し急ぎ気味に白山通りを南に向かった。スピードは出しているが、転倒しないように、事故を起こさぬように、慎重に周囲の状況に注意しながらペダルを漕いだ。頬を切る空気が日に日に冷たくなっていく。
紀尾井町のオフィスビルの高層階に僕たちセラピストの待機ルームはある。一階でIDカードを提示しオートロックを解除して中に入る。エントランスでは、ダンディなコンシェルジュさんが恭しく僕にお辞儀をしてくださる。高級ホテルのホテルマンにも一歩も引けを取らないこの方の立ち居振る舞いを、いつか僕は全て身につけたいと思っている。
待機ルームは、およそ400平米の空間に、シャワールームやドレッシングルームが完備されていて、広々としたリビングルームにはソファセットや75インチのTVやトレーニングマシンも備えられている。
リビングルームは、普段はセラピスト仲間が、めいめいゲームに興じたり、トレーニングしたりして過ごしているが、今日はまだ時間が早いためか、それともみんな予約が入っているためなのか、セラピストは僕しかいなかった。
ロッカーに荷物をしまうと、まずシャワールームに向かい、汗ばんだ身体をキレイに洗い流すことが、いつもの僕のルーティーン。今日は時間に余裕があるからシャンプーも洗体も念入りにできた。オーラルケアもぬかりなく行なった。
シャワールームを出ると、ヘアメイクの久保さんが僕の事を待っていてくれた。久保さんにブローしてもらっている間、僕は念入りに爪を磨く。ブローが終わった後は、ヘアメイクと、今日は時間があるからシェービングと眉も整えて貰う事にした。
僕の近くで、スタイリストの矢野さんが腕組みしながら頭を捻っていた。入店時にトムフォードのスーツを3着オーダーで仕立ててもらったのだが、今夜の逢瀬に相応しいスーツとネクタイの組み合わせを考えてくれているのだった。
季節、天気、前回のコーディネート、あらゆる事柄を計算して、僕の服装が組み立てられていく。
色んな方の支えがあって、僕たちのセラピスト活動は成り立っている。
コーディネートが決まるまで、僕はバスローブ姿のままリビングでのんびり過ごすことにした。
いつの間にか窓際に人の影が見えた。僕と同じくバスローブを纏って、ブランデーグラスを片手に遠い目をして夜の街を眺めていた。
霜月さんだ。
霜月さんは全く微動だにせず、遠くを見つめながら固まっていた。心なしか、なで肩の傾斜がいつもよりキツくなっている気がした。
「あの人は、気にしなくていいからね」いつか先輩が忠告してくれた通り、僕は霜月さんに関わるのはよして、今夜の逢瀬のイメージトレーニングをする事にした。
カッシーナのロングソファに深く座って全身の力を抜き、ゆっくりと目を閉じる。身体をリラックスさせて、お客様が逗留されているお部屋に入室してからの流れを自分の頭の中に描いてみる。そこにはクールでスマートに振る舞う模範的なセラピストがいて、満足された様子のお客様がいる。妄想の中ではいつも成功したイメージしか沸かないのだが…このイメトレが実戦で役に立った事は一度もない。
所作、マナー、気配りといった接遇に関することは一朝一夕に身につくものではなく、その人の普段の習慣が如実に現れる。大袈裟に言えば、セラピスト活動というものは、その人の生き様がそのまま反映されているようなものだ。そう考えると僕のような人生経験の浅い若輩者は、はじめっから不利な事だらけに思えた。背伸びして無理に大人の振る舞いを真似てみても、すぐにボロは出てしまう。予約時間内には、全く予期しない想定外の出来事が起こることがままあるが、臨機応変に立ち回ることも僕にはまだまだ難しい。未熟さを売りにすることもできなくはないが、それは何となく僕の自尊心が許さなかったし、お客様の幅を狭めてしまう事になる気がした。考えれば考えるほど、この世界で成功する自信が失われていく。
とりあえず、前回よりも笑われる回数を減らそう。
僕は今夜の目標をかなり低く設定した。
隣のオペレーションルームから何やら慌ただしそうな物音が聞こえ、やがて僕に向かって内勤さんが小走りに走ってきた。
「重千代、今夜のOさんスタート少し早くなった。行けるな?」
「あ、はい。行けます。大丈夫です。」
良かった。早めに準備しておいて。
でも正直、もう少し待機していたかった。
不安な気持ちを散らすには、まだまだ時間が必要だったんだ。
程なくして、控え室から出てきたドライバーの中嶋さんが僕に声を掛けた。
「重千代、今日はお前に車を選ばせてやるよ。あ、でもレクサスは3台とも出払ってるから、ベルファイヤーとエル・グランドの二択だな。どっちにする?」
「あ、じゃあ、エル・グランドでお願いします」
「そうか!『販売のトヨタ』よりも『技術のニッサン』を選んだな。セラピストとしては正解だぞ♪」
中嶋さんは満足気に、そう話した。正直、車の事は詳しくなくて、発音しやすいためエル・グランドを選んだだけだった。
ホンダ派の中嶋さんは、オデッセイの購入を事務局に進言しているらしいが、断られ続けているという。
一通り身支度を済ませて、いよいよ出動の準備が整った。先程までのリラックスした気分は打ち捨て、セラピストのモードに切り替えた。僕は大きな姿見の前で様々なポーズをとってみて、髪型やスーツの着こなしをチェックした。無駄とは思いつつ表情や目つきの練習もいくつか試してみた。
少し早めに地下駐車場に降り、アイドリング中のエル・グランドに向かう。中嶋さんは早めにエンジンをかけて、僕のために室温などの環境を整えてくれている。
黒いボディに合わせた黒いホイールキャップの中央には、控えめではあるけれど、金色で「萬」の文字が施されている。
僕たちの送迎に用いられているエル・グランドは通常の3列シートとは違い、4人乗りのVIP仕様。走る執務室とも形容された最高級のミニバンで、後部座席はパワーシートになっており、航空機のファーストクラスとも遜色ない乗り心地となっている。
でも、僕が後部座席に乗ることは、まだ当分ないと思う。若手は助手席に乗ることが何となくお店の不文律になっている。僕としても、実績を積んでもいないのに後ろの座席に座る事は、何だか決まりが悪い。
さっきからインカムで事務局とやり取りしていた中嶋さんが、僕に向かって言った。「重千代、東京出張に来てる大先輩も、方向一緒だから同乗する事になったんだ。出発もうちょっと待ってな」
萬天堂のセラピストさん達は、エリアを限定して活動している方がほとんどだが、中には全国各地に出張で飛び回っている方もいらっしゃる。東京から遠方に赴く方もいれば、逆に遠方から東京に出てくる方も多くいらっしゃる。きっと、いろんな土地にお客様を抱えているのだろう。まるで人気スターが日本縦断ツアーをしているようで、僕はいつも羨ましく思っている。
やがて、遠くから長身のオジピさんが満面の笑みでこちらに向かってくるのが見えた。
甲府店のトップランカー、田原さんだ。
田原さんは、還暦過ぎとは思えない軽い身のこなしで、高笑いしながら車に乗り込み、慣れた手つきでシートポジションを自分用に整え始めた。
思いがけずビッグな方と出会えて、僕は緊張で挨拶以外何も話せなかった。
そしてまた1人、今度は眼光鋭いイケメンセラピさんが車に近づいて来た。
枚方店のトップランカー、岡田さんだ。
岡田さんの身体は格闘技で鍛え上げられていて、かなり筋肉に厚みがあることがスーツ姿でもよくわかった。歩く姿や立ち居振る舞い全てに華があって、惚れ惚れするほど美しい。
ビッグネーム2人を乗せて、僕達のエル・グランドは、それぞれの戦地に向けて走り出す。
駐車場を出ると、案の定、街はひどい土砂降りだった。でもどんなに強い雨が降ろうと、中嶋さんの運転は晴天時と全く変わらず安定している。
車は三宅坂の交差点を右折し青山通りから内堀通りに入る。道路の左側には桜田濠が広がる。土砂降りの雨は弱まる様子もなく、路面の水たまりに車列のテールランプが反射して赤い影がいくつもできている。
皇居周辺は景観の関係で高層の建物は建てられない。だから、ここだけぽっかりと夜空が広く見える。この辺りを走っていると、真っ暗な荒野に放り出されたような、どうしようもなく孤独な気持ちに襲われる。今夜のような不安を抱えている時は尚更ネガティブな気持ちが強くなる。でも今は大先輩達も一緒だから、少しだけ心強い。
後部座席の大先輩達はダブルで、しかも宿泊で予約を請けているそうだった。これほどのトップランカーと豪奢な遊びをするなんて、一体どんな女性が2人を呼んだのだろう。きっと僕の事などは歯牙にもかけないだろうその人の事が、とても興味深く思えてきた。
僕達の車は、遠巻きにビル群に囲まれている形になっていたが、やがて煌めいた明かりに吸い込まれるように商業エリアに近づいて行く。
大先輩達は互いに言葉を交わすことはなかったが、2人ともリラックスしている様子だった。ダブルの場合、段取りなどの打ち合わせが必要に思えるが、そこは経験を積んだトップランカー同士だけあって、阿吽の呼吸でうまく進めていくのだろう。もしかすると、このダブル宿泊予約は定例行事のようなもので、お二人とももう慣れっこなのかもしれない。
日比谷交差点まで来ると、僕は気持ちのギアを一段上げた。ここを右折すれば帝国ホテルはもうすぐだ。
エル・グランドは僕を下ろした後、八重洲方面に周りブルガリ ホテル 東京に行くようだった。
帝国ホテルの車寄せまで車は到着した。
もう後には引けない。
ここから先は何があろうと自分1人で解決していかなくてはならない。
大丈夫、とにかく落ち着いて事に当たるんだ。
車が停車して、パーキングブレーキが踏み込まれる。助手席のドアを開けると、一段と激しくなった雨音が僕を包んだ。
扉を閉め、先輩達に会釈をした。
先輩達は優しく微笑みながら軽く手を挙げてくれた。
「グッドラック」
助手席のウインドウを開けて、中嶋さんも優しく僕に声を掛けてくれた。
「行ってきます!」
努めて明るく挨拶し、僕は入口に向かった。
大丈夫、きっと大丈夫。
僕は自分に言い聞かせた。
もう、誰にも助けは求められない。
でも大丈夫。僕はプロだから。
僕が請け負った時間は、僕がデザインするんだ。
完
長々とすみません。最後まで読んでくださりありがとうございますお時間取らせてしまってすみません