夜の新宿駅は街が光で満ちていた。僕の好きな灯りではない。虫が灯りを囲んで賑わっている。引き寄せられるようにしてカツンカツンと硬い羽で衝突する。僕はそう言う虫が好きではない。ただそんな虫に生まれていたら、僕も同じようにあかり目掛けて衝突し、ついには外部の甲殻が取れて、中の透明な薄い羽を夜風に煽られ、飛ばされるがままにどこかに連れてかれて死んでしまう気がした。そういうのって悪くはないような気がした。あまりに滑稽できっと痛快だろう。
駅から少し歩けば街の色合いも変わる。虫の数は変わらないが模様がついた虫たちが血気盛んに鳴いている。求愛をしているものもあれば、悲壮を喘いでいるのもあるだろう。案外みんながあまりに鳴くから、自分が鳴家内のは居心地が悪いとかそんなことかも知れない。
煩わしく感じていた蝉の鳴き声が恋しくなるような冷え切った夜だった。暖色のネオンライトが彼らを惹きつけているのだろう。虫の羽音がうるさい。その中にぬくもりはないのに。あるいはそうとわかりきっていても、羽音を鳴らさずにはいられないのかも知れない。本当のものを見つけることの痛みに比べれば、紛い物を大切にすることが彼らの短い一生ではより現実的で確かなことなのかも知れない。
そんなことを思いながら歩いていると、あっという間に目的のラブホテルに着いた。周りのラブホテルと同じように、看板には休憩六千円、一泊一万五千円と書いてある。
時間だ。僕は待ち合わせに相手に非通知で電話をかけて部屋の番号を訊く。フロントでその番号を告げると、アポイトメントをとってくれる。確認が取れた旨を僕に伝え「ごゆっくり」とは言わないがエレベーターの場所を教えてくれる。赤の他人の伝言ゲームはこうして終わる。
ひとりでエレベーターに乗っている数秒が一番緊張する。自分が行ってはいけない場所向かっているようで引き返したくなる。それでもエレベーターは上進を続ける。僕にそれを止める術はない。高校で物理の授業を受けていた頃の情景が浮かぶ。物理教師は便宜的ね棒人間に矢印を書く。重力として下に矢印を書き、エレベーターの加速度を上向の矢印で書く。0時30分を指した時計。チン、と音がして僕はエレベーターを降りる。
コンコンと静かにノックをする。
「こんばんは。お待たせ致しました。ホワイトリゾートのハルユキです」
「はい」と、言って女性がドアを開ける。
「失礼します」と、挨拶をして部屋に入ってしまえば、あとは考えるより体が勝手に動いてくれる。
部屋に入ってしまえばなんていうことはない。きっとひとりでいるよりも、男女が部屋にいることの方が収まりがよくなるようにラブホテルは作られているのだろう。そういうのに気が利く建築士が図面を描いて、その図面をもとにラブホテルの建設用の作業員が重機を駆使してうまいこと建てたのだろう。
「当日予約。今晩の八時から。二十代後半。女性用風俗の利用は初めて。歳が近いセラピストを希望」と今朝オーナーから連絡があり、特に用事がなかったので僕はその依頼を受けることにした。
相手の指定したホテルも何度か行ったことはあるので勝手もそれなりに心得ているし、初めての利用者というのはこちら側も何かと都合がいい。もちろんある程度のリスクもあるが、そんなことを気にしていたらこの仕事はしていない。あるいはどこかそのリスクにで全てを失いたいと思っているのかも知れない。まさかね。
相手の女性はアンナと名乗った。入り口であった時から淡い緑色のワンピースがとっても似合っていると思った。綺麗に整えられた前髪は分けてあって、形のいいおでこと整った眉、それにすんと筋の通った鼻筋を綺麗に見せた。僕は後でどう褒めようかなんて考えながら、ぎこちない身振りで部屋に招くアンナさんに促され部屋に入った。
「すみません。外から来たので手洗いとうがいを済ましてしまいますね。どうぞソファーにでもお掛けになってお待ちください」
はい、と小さく返事をしたアンナさんに会釈して僕は洗面台に向かう。できるだけ音を立てないよう注意しながら外気の汚れを落とす。タオルの位置を調整して、歯ブラシとコップの場所を確かめておく。鏡に映った自分を一度確認。問題なし。
僕はゆっくりとドアをスライドさせて改めて彼女の部屋に入る。「隣、いいですか?」僕は微笑みながらそう訊く。
はい、と呟く彼女の横に僕はそっと腰掛ける。彼女の横顔は耳からあごまで余分な肉がついておらず、色白い肌から青みがっかた血管が透けて見えた。僕は綺麗だと思った。
「改めまして、こんばんは。カズといいます」
「こんばんは。えっと。アンナです」
アンナさんは呟くように言った。緊張しているのかも知れない。できるだけ落ち着いた声を心がけようと、僕は思った。
「初めてのご利用と聞いているので、よかったら僕から少しお話ししてもいいですか?」
「はい」
「ありがとうございます。最初はこのアンケートを書いていただくんです」と言って、僕はA4サイズの用紙とボールペンをテーブルのアンナさんの前に置いた。「難しいものではないんですけど、ある程度書いてもらったものを元に施術を行うので、して欲しくないことがあったら、選ぶ欄があるので書いてください」
アンナさんは少しかがんでアンケートを読み出した。彼女の裸眼が左から右に動く。僕はこういう仕草を見るのが割に好きだ。
「部屋の温度はどうですか?」と僕は訊いた。
アンナさんの視線が僕の顔に移る。僕は目に皺を少し作って、微笑んだ顔にして言う。
「ちょうどいい?」声のトーンも大事だ。
「はい。大丈夫です」
「よかった。あ、そうですよね。先に待っていてもらったんだ。うっかりしてた」
そう言って少し笑うと、アンナさんも微笑んだ。緊張が少し取れてきているかも知れない。出来るだけ早めにリラックスしてもらうためにこれは結構必要だったりする。空調のボタンがホテルによって異なるので、わからずにそのままにしているお客さんも結構多い。
「それじゃあ、少しずつ書いてもらおうかな」
はい、とアンナさんはボールペンを手に取った。
アンケート用紙には七つの質問がある。図があってマルをしてもらったり、自分で文字を書いてもらう箇所もある。
①お疲れの部分・マッサージして欲しいところ。(簡略化された人体の正面と背面の絵があり、マルをしてもらう)
②触るのNG(同様の絵が書いてあり、マルをしてもらう)
③今日のご気分(自身の言葉で書いてもらう空欄がある)
④どんな時間を過ごしたいですか?(右に同じ)
⑤性について感じていること(右に同じ)
⑥ご希望の部屋の明るさ・音楽(右に同じ)
⑦ボディケア(お疲れ)「大ーーーーーーー小」
性感(Iラインなし)「大ーーーーーーー小」
ハグ 「大ーーーーーーー小」
会話 「大ーーーーーーー小」
この四点は「大ーーーーーーー小」の棒線にその時の気分の辺りにマルを付けてもらう。
女性用風の風俗は男性が使う風俗と違って時間がとても長い。僕の所属するお店も最低の時間は百四十分で、そんなに長い時間マッサージなんてしていたら疲れてしまうからじっくり話を聴いていく。それにマッチングアプリが当たり前になった今では女性がある程度の男性と単にセックスするのにお金なんかかからない。(二十代となると特に。)その中でわざわざお金を払ってオーガイズムを求めるのは、どのお客さんもそれなりに何か理由があったりするのだろうと僕は思う。だから、ここでのアンケートに時間を取る仕組みはお互いの理解のために必要不可欠な時間だ。出来るだけ彼女のものめている何かを僕は自分なりに考える。
軽く雑談をしながらアンケートを書いてもらうだけでも、その人の人となりはある程度わかるものだ。長い付き合いでもわからないことが多いのと対照に。少なくとも今この場所でどうありたいのかという程度はなんとなく察しをつける。
アンナさんは初回の女性らしく恥じらいながら①と②を書いた。
①は脚にマルを付けている。
「アンナさん、普段は結構脚に疲れが溜まりますか?」
「はい。そうですね。結構仕事で……」
「お仕事で立たれたりするんですね。それは脚にきますよね」
「そうなんです。八時間働くんですけど、その内だいたい半分くらいは立っているんですよ」
「それは大変だ。僕も本業では結構立っている時間が長いんですけど、やっぱり脚から疲れますよね」
「本当、そうなんです」
アンナさんの緊張が解けてきたのを感じた。そんな他愛のない会話を少しずつ重ねて、僕は会話の語尾をゆるめていくように掴みどころのないような声で僕は話す。僕にものめられているのはダンディーではないのは心得ている。僕の容姿はカッコいいとは決して思われないから、どこか飄々としていて掴みどころないような、それでいて女性に負けてしまいそうなくらいの方がきっと良いとこの仕事をしていて思った。男性というのは、常に女性に対してある種の圧力を感じさせてしまう。
②触るのNG、は「なし」と書いてあった。そういうつもりがなければこんなことにはお金は出さないだろう。
「それじゃあ、お風呂を沸かしてきますね。アンナさんは普段どのくらいの温度でお風呂入っていますか?」と僕は訊いた。具体的に温度を訊いておくのか一番無難にリラックスしてもらえる。
「え、どれくらいだろう」と彼女は瞳を少し下にして考えてから「ちょっと熱めがいいです」と言った。
「じゃあ、四十度くらいかな?それとも四十一度、二度くらい暑くしちゃう?」
「じゃあ、四十度で」
「オッケー。了解です。準備しているのでそのままアンケートをお願いします」
そう言って僕は浴室へ向かった。
ベッドにふたりで入っている間、アンナさんは僕のことを見なかった。僕は彼女の乳輪を右手の薬指で撫でながら、左腕で彼女を抱き寄せた。アンナさんは温かくて、さらさらした髪はひまわりの香りがした。
「可愛い」と僕は彼女の耳たぶを触りながら囁いた。アンナさんの体に一瞬力が入ったのがわかる。アンナさんは僕に体を向けるとキスを求めた。僕のお店は粘膜の接触を禁止している。だから僕は代わりに頬を彼女に向けた。アンナさんは何度も何度も僕の頬に口付けをした。彼女の湿った唇の感触を僕はただ感じていた。
そうしてアンナさんは僕の手を解いて、僕に覆い被さった。アンナさんは僕を、僕はアンナさんを両手で抱きしめた。僕はアンナさんの背中を右手で抱きしめながら、左手で彼女の耳を撫でた。徐々に彼女の腰が浮いていく。空いた隙間に僕の左手を入れる。彼女の臀部の奥に伸ばした手のひらでゆっくりと撫でる。指で優しく彼女に触れる。アンナさんは揺れ、猫が伸びをするように腰を上げた。僕は彼女の太ももの間に右膝を立ててあげる。
「腰が触れちゃう」
そう言って彼女は僕の右膝に股を擦り付けた。彼女の付けたエステ用の下着は、雨に塗られたみたいに濡れていた。彼女が腰を降り続けている間、僕は彼女の耳や腰を指でそっと撫で続けた。彼女が絶緒を迎えるまでそれは続いた。
「初めてでなんて言えばいいのかわからないんですけど……。とってもすごかったです。すごくよかったです」
アンナさんは最後にそう言って新宿駅の改札を抜けていった。
僕は茜のことを考えていた。Peaceを一本吸うと、僕は街の虫になったような気がして涙が出てきた。煙が街頭に揺れる。
カズの写メ日記
-
ふたりの秘密(創作)カズ