我々はこうして「日記」と言うモノを通して
自分達の価値観や考えを受けて側に
活字を使って表現し理解される
そこには高尚なモノから
稚拙なモノまでピンキリが激しく
書き手の特徴や癖が投影されやすい
そして「文学的表現」の可能性で言えば
活字からのインスピレーションで作られる
「想像の余地」が多いことだ
音楽も映像表現も
「音」と「画」が
作り手によって決められることで
より分かり易い表現となるが
「活字」の場合は音も画も
受け手の「想像力」に左右される
その可能性たるや無限大だ。
だがやはり限界もあり
表現者としては歯痒いことが多い
その不自由さが可能性でもあるのだが
時としてそんな「不自由さ」が
「自由」を求める意志となることを考えると
不自由さもまた自由の一部なのかもしれない
そんな分かり易くも難解なモノが
この世には2つある
「活字」と「愛」
不自由でもあり
自由でもある
そんな愛を活字を使って考え表現しよだなんて
我々はよっぽど不自由が好きらしい
自由における不自由のマゾヒズム
そんな答えの出ない迷路を彷徨いながら
永遠にサディスティックに
活字を書き殴っていこうか
こんな表現も伝わりきらないところが
「日記」の面白さかもしれない
そうでしょ?
文学的不自由なマゾヒストさん。
麗
麗の写メ日記
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文学的表現の可能性と限界麗