最近、大学でもセラピ活動の中でも頻繁にこの質問受けるんですよ。
なので、今回はこの手の質問をされた時に僕がいつも返す回答を日記にしていこうかなと思います。
まず第一に、僕は「人間の嗜好」というものはその人の歴史であり、過去の経験に基づき生成変化されていくものだと考えています。
したがって、今の自分の「好き」を理解するには今までの自分の歴史を振り返り、若干精神分析的な仕方で考えていくことが良い方法だと言えます。
そして、大抵、皆が自分の好みを考える際にその物差しとして以下のように三つに事を分類して考えるでしょう。
①好き②嫌い③どちらでもない
ただし、③のどちらでもないにはまだ経験したことのない事も含まれるため、今回の日記のように、自己の歴史から今の嗜好を理解するという趣旨には合わないため考慮に入れないことにします。
したがってここからは
①好き②好きではない(どちらでもないも含む)
の二項対立的に考えていこうと思います。
序文で、自分の嗜好は自分の歴史において形成されると言いました。
例えば、僕がこの世界に誕生した瞬間、その瞬間においてはまだ自己の嗜好というものが定まっていません。
自己の嗜好を定義するにはまず同じカテゴリーに分類される2つ以上のものと出会う必要があるからです。
例えば、鎖国時代の日本人(外国の情報も十分に知り得ない)に好きな国を聞いたところで、その比較材料がないとの理由で答えることができません。
したがって、まず前提として、自分の嗜好を分析する上でその分析対象と並列されるものを複数経験している必要があります。
そして、いくつか経験していくうちに、その対象はそれより以前に経験したものとの比較によって、それより好き、つまりこれが一番好きと言ったようになるのです。
極端な例ですが、生まれて今まで昆虫しか食べたことのない人が、神戸牛を食べたら以前に食べていた昆虫より美味しく感じられた、つまり神戸牛が僕は好きだ、と言ったら風になります。(昆虫の方が好きな人もいるかもしれないですが。)
第二に、その比較方法についてですが、人間の感覚機関に直接与えられる刺激においての好みは実は客観的に比較できるようで、比較できないのです。なぜなら、それは全く別のものであるからです。ただいま、昆虫と神戸牛を比較したばかりではないかと指摘を受けますが、これはあくまで主観的な好みなので、そこから何か抽象的な要素(構造)を抜き取って比較することはできません。
なんで、神戸牛より、昆虫の方が好きなの?と聞かれて、「だってそっちの方が美味しいじゃん」と答えるということは客観的な主張とは言えません。
客観的比較というのは、
181cmの僕と200cmのバスケットボール選手の身長の比較において第3の物差し、つまり巻き尺なり定規なり、共有している空間が必要になります。(これはフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』に書かれています)
つまり、何か二項対立的に比較する場合、それらが共通する第3のもの(二つを並列させる空間)が必要になります。
しかし、食べ物や恋愛の好みのようなものは
同じ空間に並列することはできません。なぜならそれらは同じ空間を共有していないからです。
オムライスとカレーライスを比較する際、自分の知覚から離れた客観的物差しで両者を比較することは困難でしょう。
僕らはそれらを比較する際、主観的な経験においてのみ判断するしかないのです。
したがってそこから同じ構造を持ち出して比較するという仕方は無意味なわけです。
異性に対しての嗜好も同じで、
今まで好きだった相手の要素をいくら言語的に持ち出してそれを提示したところで、その要素はあくまで主観的に判断されたものに過ぎません。
好きな好みは?
→優しい子
→それはあくまで君が主観的に優しいと感じただけだあり、そもそも君の優しいの定義も僕は知り得ないのだから優しい子というのはなんの客観性も含まない。
というように、一般的な仕方で好きな好みを列挙したところで相手にそれが伝わるということはないのです。
僕らは、個別的に相手と一対一でコミュニケーションを図りそれを主観的な仕方で好みの選抜をします。
しかるに、この主観的においてのみ判断される好みを言語という客観的なものに落とし込んで他者に伝えるということは非常に難しいということです。
しかしやはり、それでも尚好きな好みを列挙できるという反論も伺えます。
例えば
「毎日好きって言ってくれる人」
や
「浮気をしない人」
など。
一つ目の例は、その人とその相手との状況に依拠します。
つまり、「毎日好きって言ってくれる」というのは「すでに主観的な好みにおいて相手のことを好意的に思っている」ということが前提に成り立っています。
二つ目の例は、否定的に求められた好みですが、僕は上記において「好きの要素」は主観的においてのみ求められると思って書いたのですが、「嫌い」に関しては「好き」より客観的に求められる場合が多い気がしています。
過去の恋愛で交際していた彼氏が自分以外の人間も情事を交わしていた。
→浮気をする人は好きではない
のように。
これは一つの客観性を持ち得ます。
(ただし、ではなぜ浮気をする人が好きではないのか?と聞かれたら、浮気をする人が好きではないからと答えるしかありません。しかるにこれもまた掘り下げると主観的価値観に行き着いてしまいますが。)
というわけで、好きな女の子のタイプは?と聞かれたら上述の理由で僕はそれにお答えすることはできない、または今までの過去の歴史において嫌だった要素を一つ一つ列挙し、その要素を持ち得ない人と答えています。
柚香の写メ日記
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僕の女の子の好み柚香