普通の生活をしていると、外部の人間があーだこーだ言うのはウザいんですよ。上司がどうとか親がどうとかパートナーがとかもうキリがない。じゃあ其れ等全部振り払って1人になってだーれも自分に干渉してこない状態って、果たして心地いいのだろうか。日々の〆切や時間に追われることもなく、なんの責任もない状態。其れ等を手に入れてない時は、喉から手が出るほど欲しいのだけれど。
そんな状態を手にしたとして、人は思い通りに生きれるのだろうか。1人を望んだところでまた誰かと逢いたくなる。恋人が嫌になってもまた別の人を。もう恋なんてしないなんて言っても、また人は恋をする。つまり誰かを求める。結果的に人は1人じゃない。でも今あるこの状態を、不満だらけのパートナーとの生活を辞めてまた別の人を得たところで、新たな良き生活は生まれるのだろうか、そんな葛藤を繰り返してる人は多い。
結論から言えば相手が変われば環境も変わり世界も変わる。ただ一つ言える事は1人でいる事は自由の様で完全な自由でもない。だって人は人を求めるから。それだけは絶対だ。
この世界に僕らがいなくても、貴女はきっと誰かを求めていた。その素直な感情は否定するな。誰かを求めるのは人の性(サガ)だ、悪ではない。そして僕らが生まれ君に逢えたのもまた性。そう思うと性感とはサガを感じる時間とも読める。あらゆる環境の中でも出会う事が必然だと思えるそんな時間を、理屈も哲学も捨てて、五感すら飛び越えて、第六感で感じる事が出来れば、気持ち良さなんてスグに通り越してあの世逝き。自分の人生の歯車が止まってしまった感覚にあるのなら、俺が外から手を突っ込んで回してあげる。
それが善としての外的要因。
麗の写メ日記
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善としての外的要因麗