冬の京都。降り積もる雪が琵琶湖疏水沿いの道を白く染め、木々の枝には薄い氷が張り付いていた。吐く息が白く煙り、僕たちはしんと静まり返った古都を歩いていた。隣には彼女がいる。彼女の名前をここで明かす必要はない。彼女の存在そのものが特別で、名前以上の意味を持っていたからだ。
「知ってる?」彼女がふいに言った。「『ヴェローナの二紳士』の話を。」
「聞いたことはあるけど、詳しくは知らない。」僕は、正直に答えた。シェイクスピアの作品の一つだということくらいは知っていたが、詳しい内容までは分からない。
彼女は軽く頷きながら歩みを進めた。「友達同士の二人の青年が、友情と愛の間で揺れ動く話なの。どちらか一方だけを取ることなんてできなくて、結局はどちらも裏切ってしまう。面白いと思わない?」
「それで、どんな話なの?」僕は彼女がどんなふうに話すのか興味があった。彼女が語る物語は、ただの話以上に彼女自身を映し出しているような気がしたからだ。
彼女は疏水に目を向けた。寒さで水面は凍りかけていたが、ところどころにまだ流れが見える。「ヴェローナに住む二人の青年、プロテウスとヴァレンタインがいるの。彼らで、互いを何よりも大切に思っていた。でも、プロテウスには恋人のジュリアがいて、ヴァレンタインには自由があった。」
「自由?」僕は問い返した。
彼女は微笑んだ。「ヴァレンタインは恋愛なんてつまらないと思っていたのよ。彼はもっと広い世界を見たいと願っていた。だからヴェローナを離れて、ミラノに行くことにしたの。友達のプロテウスを置いてね。」
「友情より自由を取ったんだ。」僕は冷たく響かないように言った。
「そうね。」彼女は頷いた。「でも、プロテウスもそのうち、ジュリアを置いてヴァレンタインを追うことになるの。」
僕は少し笑った。「恋人より友情を取るの?」
「そう思うでしょ?」彼女の瞳が僕を見据えた。「でも、ミラノに着いたプロテウスは、ヴァレンタインが恋しているシルヴィアという女性を見て、彼女に一目惚れするの。そして、ヴァレンタインを裏切ってシルヴィアを奪おうとするのよ。」
僕は歩きながら考えた。プロテウスという青年は、友人を裏切ることで愛を手に入れようとしたのか。なんて浅ましい―いや、それだけ純粋だったのかもしれない。
「それで、どうなる?」僕は続きを求めた。
「最終的には、ヴァレンタインが全てを許すの。」彼女の声にはわずかな皮肉が混じっていた。「シルヴィアも、友情も、プロテウスに与えてしまうの。『友情がすべてに勝る』っていう名目でね。」
「それじゃ、裏切りが報われたってこと?」僕は驚いて聞き返した。
「そう見えるかもしれない。でも、誰が本当に幸せだったのかはわからないわ。」彼女は視線を空へ向けた。「許しって、時には残酷なものよ。」
僕たちは小さな茶屋に入った。暖かな室内に迎えられ、雪で冷えた体が少しずつ解けていくのを感じた。湯気の立つ抹茶を注文し、窓際の席に座った。窓の外には、舞い落ちる雪が静かな京都をさらに幻想的にしていた。
「どう思うの?君は。」僕は彼女に聞いた。「もし君がプロテウスの立場だったら、ヴァレンタインを裏切る?」
彼女は少し考えてから答えた。「プロテウスみたいに、自分の欲望に正直になるかもしれない。でも、ヴァレンタインみたいに全てを許すこともできると思う。」
「どっちも選ぶの?」
「そうね。」彼女は微笑んだ。「だって、人間はどちらかだけを選べるほど単純じゃないもの。」
僕は彼女の言葉に妙に納得してしまった。友情と愛。どちらも捨てがたいものだが、どちらか一方を取ることでしか生きられないのだとしたら、それは悲しいことだ。
「でも、僕なら許せない。」僕は少し意地になって言った。「裏切りは裏切りだ。たとえ友人だろうと、愛する人だろうと、裏切られたら終わりだ。」
彼女は静かに笑った。「本当にそう思う?」
「もちろん。」僕は断言した。
「じゃあ、あなたは自分自身を裏切ったらどうする?」彼女の問いは鋭かった。
僕は答えに詰まった。彼女は僕の内側を見透かすようにこちらを見ている。僕が抱えている野心、欲望、そして弱さ。それらがいつか自分自身を裏切ることになるかもしれない。僕はその可能性を認めたくなかった。
「わからない。」僕は正直に答えた。「でも、それを恐れていたら何もできない。」
彼女は満足そうに頷いた。「それが答えかもしれないわね。」
茶屋を出ると、雪はさらに激しく降り積もっていた。僕たちは疏水沿いを歩きながら、再び静かになった。だが、その沈黙は心地よいものだった。
「ねえ、あなたはプロテウスみたいになりたいと思う?」彼女がふいに聞いた。
「なりたくはない。」僕は即答した。
「でも、あなたの中には彼に似た部分があると思うの。」彼女は僕を試すように笑った。「それが、あなたの魅力だと思うわ。」
僕は彼女の言葉を受け入れるべきかどうか迷った。しかし、彼女の視線には拒絶できない力があった。
「君はどうなんだい?」僕は問い返した。「君はヴァレンタインのように許す側なのか、それともプロテウスのように裏切る側なの?」
彼女は少し考えてから言った。「どちらでもないと思う。ただ、その二人がどう選ぶのかを見ているのが好きなのかもしれない。」
その言葉が僕の胸に響いた。彼女は単なる傍観者ではない。彼女は、僕や他の人間を試す存在なのだ。彼女が僕の中に何を見出すのかはわからない。しかし、僕の中の何かが彼女に動かされているのは確かだった。
僕たちは立ち止まり、雪に覆われた疏水を眺めた。白い世界の中で、僕たちの影だけが静かに伸びるのだった。
柚香の写メ日記
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ヴェローナの二紳士柚香