最近、国内で流行っている多くの文学や映画において同様のテーマが語られていると感じたので今回の日記を書きます。
小学校の道徳の授業で「相手を理解することが大切である。」と先生が言っていたのを思い出しました。
当時、僕はその先生の授業が退屈だったのか次の時間が厳しい社会の先生の授業だったからかその道徳の時間はぼーっとしていた記憶があります。けれどもふと、彼が読み上げた教科書の一節が脳裏に蘇ったのです。
相手を理解することが大切であるなんて僕は微塵も思わないんですよ。
だって相手のことって理解できないじゃないですか。
理解できないから他者なわけで。
そもそも理解の定義ってすごい曖昧ですよね。何をもって理解というかもわからないのにそんなこと言われてもな。って思った記憶があります。
おおよその人間は自分の腕が次どのような動きをするかはわかりますよね。
自分の足が今どのような感覚になっているのかも知覚できます。
つまり、少なくとも普通に生活する分には自分の身体のことは「理解できる状態」にあります。理解できる=自分の一部と認識できるわけです。(それが出来なくなった時、それが自分の一部とは感じられないって現象も良く聞く話です。)
では、目の前の人が今何を考え、次にどのような行動を取るのか予想できるでしょうか。
それはできないと思います。
もし完全に予想できるとしたら、それはもう自己の一部なわけですよね。
つまり、他者という言葉の定義の中に、「理解できない」という意味が含まれているんです。
しかし、時たま「僕は君のこと理解してるよ」とか「君のことはよくわかるよ」みたいな戯言を吐いてbarで相手を口説いている輩を見かけます。
それって一つの暴力ではないかと思うんですよね。
もし自分がすごい悩みを抱えた時に、横にいる人が「君の気持ちはよくわかるよ。」とか「君のことは完全に理解してるよ」とか言われたら、「いや、何がわかるねん」とか「全然違うんだけどな」ってつっこみたくなります笑
僕たちはいくら相手を理解しようとしても自分の仕方で理解するしか方法はないし、自分の経験を遥かに上回る体験を完全にわかることってできないんですよ。
自分の経験は他の誰にも体験できない固有のものなので、それを誰かに「完全にわかるよ」みたいな型にはめられたことを言われると何となく冷めちゃいますよね。
じゃあどうすればいいのかって話なんですよ。
「理解してる」っていうのはおかしい。けれど、当然、相手の方は自分の事を理解して欲しいという欲求も持っている。
だから僕は、その時、「理解している」というのではなく、「理解したい」という風に言い換えればいいのではないかと感じました。というかもう何も言わずに横にいて、抱きしめてあげればいいのではと思います。
この女風の世界に2年少々身を置いていて、時たま自分の経験を遥かに超えた話を聞く場面があります。その時、その人に寄り添うには既存の自分の倫理観を捨てなくてはいけないと考えています。
倫理は他者理解の場面においては邪魔者になる場合があるのです。
相手を無理やり理解したつもりでいるのは、相手を否定し超越しているのと変わらない暴力だとしても、理解に向かいたいと努力することはできるので、その時は一旦既存の概念や倫理を傍に置いておいてただ話を淡々と聞くという姿勢も大切なのではないでしょうか。完全に理解できるわけではないと知った上で理解しようと努めるというか。
今回の日記を踏まえて
ノーベル文学賞を受賞されたハン・ガンさんの『菜食主義』という小説
また
先日僕がポストで紹介した
第77回カンヌ国際映画祭・国際映画批評家連盟賞受賞作品の
『ナミビアの砂漠』なんかを見たら面白いかもしれないですね。
柚香の写メ日記
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理解という暴力柚香