僕は京都に一目惚れした。
それは6年前、高校の修学旅行で初めてこの街を訪れた時だった。古い街並み、南北に伸びる美しい川、街を囲うように聳える山々。
それらが皆、東京という街で生まれ育った僕には新鮮だった。
そしていつか関東を出てどこか違う景色の見える場所に住みたいと思っていた僕に、この街はぴったりだと思えた。
それから2年後、無事に大学受験を終え、西に越してきた僕は京都のあらゆるカフェを巡り、あらゆる路地をうろつき、静寂な寺や神社の匂いを吸い込んだ。
また、河原町の人並みにもまれたり、枯れ葉の地方くさい匂いが川の香りを消してしまっている木屋町通りや、公園、オフィスが立ち並ぶどこか都内の地元を感じさせるような四条烏丸界隈を散策したりした。
僕は鈴なりの人たちを乗せ、がたがた揺れる小さな電車が好きだった。
そして、その電車の東には天台宗の総本山とも言われる比叡山を眺めることができる。
そしてついにあの日、その山へと足を運ばせる時が来たのだった。
京都付近の自然にはこれといった特色はない。
野生的であると同時に近寄りやすく、どんなハイカーたちにもまばゆい秘密をあかしてくれる。その日、自分が変わっていたことといえば、どの集団にも属さず、ハイキングは時間つぶしではなく、しなければならない義務であったことだ。
自分の意志から湧き出る情熱はどこへ向かうのか探究するという目的のために。
僕は準備に時間を使わなかった。
一般的に使われる登山用具、専用のリュック、溝が深い登山靴、グラブなど一切持ち合わせていなかった。僕は普段、大学に着ていく比較的アウトドアに向いているだろうアウターにデニムを履き、コンバースのスニーカー、教科書やPCしか知らないリュックにバゲットの切れ端とりんごを入れた。
一度ならず山中ですれ違ったハイカー達は、1人場違いな格好で登る僕に奇異の目線を向けてくるかと思いきや、軽くハンカチを振りながら挨拶をしてくる。
それがとても心地よいのだ。
登り始めると段々と毛穴から汗が吹き出て、肺が酸素を欲し、心臓が脈立つのを感じる。ふくらはぎは慣れない不整地と急な斜面に悲鳴をあげ、腕の力まで抜けていく。それでも何一つとして苦痛とは感じなかった。
僕はどこに導くともしれない、青、緑、赤、茶などの標識を探しながら、道だか何だかわからない石ころの間を行く。
時々僕は標識を見失い、それを探しながら強い香りを放つ木の枝を折ったり、僕にとってはまだ目新しい植物で手足を擦りむいた。
僕は老練なハイカーよりももっと優雅に、比叡山を徹底的に探検したいと思った。
僕は自分の力のつづくかぎり、そしてもっとも巧みな方法で自分の身体を使うことになおさら喜びをおぼえた。
そしてそれを自分の知的好奇心にのみ根拠を見出しながら。
山中では、岩の間をよじ登ったり、崖崩れをするすると抜けたり、近道を発見したりした。ハイキングの一つ一つは一個の芸術品だった。
僕はこれらのものを永久に、輝かしい思い出としてとっておこうと自分に約束した。
こんなふうに誇らかな気持ちにさせたのも全てその知的欲求というものだと気づく。
もし、無関心さから、あるいは気まぐれからハイキングを中止したとしたら、そしてもし、一度でも「そんなことをしたってしょうがないではないか?」と思ったとしたら、自分の義務をその神聖な欲求へと導くことはなかったであろう。
おおよそ1時間かけて登った山は僕にそのような以下のような啓示を与えてくれた。それは、「時に個々の探究心に沿ってのみ行動するべし」ということである。
集団に属する僕達は、既存の概念や価値観、モラルに制約を受けている。しかし、僕らが幼子だった頃、それらを与えられる以前の状態。
彼らを突き動かすのは何か。
それは知的探究心であっただろう。
ほとんど暗い闇に溶けてしまった昔の記憶を掬い上げると自分の本性てきな好奇心も呼び起こされる。
このハイキングの目的に一つの結論を導き出すとしたら、人間の自由とはその知的好奇心にのみ頼りながら自分を突き動かしていくということではないか。それが人間の根本的気質だとするならば。
そして、街へ降りた後、自分のそれと他者のそれとを上手く折り合いをつけて生きていくことが大切であると僕はニーチェのツァラトゥストラのように皆に語ろうと決心したのだ。
Natura ipsa mihi libertatem docuit.
fin.
柚香の写メ日記
-
エッセイ 比叡山へ向かう道 ②柚香