日記の難しいところの一つに、相手の顔が見えないということが挙げられます。一対一のコミュニケーションにおいては相手の顔を見れば相手が自分の話をどのように理解しているのか、相手の使う言葉と自分の使う言葉のそれぞれの定義をチューニングしながら意思の疎通を図ることができます。しかし、このような日記においては、さらにはその読者の層も幅広いがために、相手の使う言葉が僕にはわからないためにどうしても自分の使う言葉の定義と相手の使う言葉の定義との間に大きな隔たりが生じてしまう可能性があります。
これは、具体的な事物を指す場合は対して問題にはなりません。例えば僕が赤いリンゴとさせばおそらく多くの人は僕の頭の中の赤いリンゴという観念的イメージと同じようなものをすぐに想像できるでしょう。
しかし、僕が今日のように取り組む主題に関しては幾分かそれより抽象度が高く、するとやはり僕が使う単語の意味と受け取り側が理解する意味とで誤謬が生じてしまうでしょう。
したがってそのために百科事典のようなものが役に立つと思われますが、やはり我々が頼りにしているのは一つの流動的な言語であるがために、やはりそれはどうしてもそのある時期に定義づけられた言葉の定義から時間や文化的影響を受けて徐々に逸脱していくのです。
とはいってもこのテキストの総称は日記(エッセイ)でありますし、その語源には「試論」という意味も含まれていくことから、そんなことは気にせず書けばいいとも思いますが、その執筆を目的論的に考えるならばそうは言っていられないので、なるべく抽象概念には注釈を交えながら今までのような挑戦的な日記を続けて行きたいと思っております。
僕は人間においての全ての悩みは「自由」であることに起因していると思っています。
例えば自分を取り巻く人間関係、自分の進路、政治的状況などの悩みは、自分がその置かれた状況において、次にどのような振る舞いをすればいいかという無数の選択肢の中から自分の自由意志で選び取らなくてはいけないということで引き起こされます。
特定の誰かとの関係に亀裂が入った時、僕らはその相手と自分の関係性の歴史を自由に想像し解釈します。また、その解釈から得られたイメージから、次にどういう振る舞いをするのかという選択もまた自分の自由意志に委ねられています。
進路や社会的文脈の中でも、自分の立場をそれらにおいで自由意志を用いて確立していく必要があります。そして、その自由な選択肢を選び取る場面において、私たちは悩むのです。
では、その他の悩み、例えば体調不良や他者からの抑圧に対してはどうでしょうか。
それらの悩みは、自由だから苦しいというよりも、不自由だから苦しいと思われます。
これらも同様に、私たちが自由であるから苦しいと感じるのです。
なぜなら、逆説的に言うと、自由がなければ不自由もないからです。人間の本性が自由であると仮定するならば、そこから逸脱することが不自由であると言えるので、そもそもにおいてその本性が自由でなければ不自由における不満も存在しないはずです。
私たちはその本性的な自由に対し、そこから逃れたいという欲求を持ちます。
そこで我々は時折、自己欺瞞的に振る舞うのです。
本当の自分とは異なる理想化された自分や置かれた状況が期待する自分を演じるということです。その自己欺瞞的な振る舞いをしているときは自分の行動や選択にある種の制限をかけることができます。例えば、カフェでバイトをしているときはカフェ店員の役を私たちは演じます。しかし、本来私たちはカフェの店員ではないのですからそのように振る舞う必要はないように思われます。しかしその状況の中においては私たちはカフェの店員を演じて自己の観念的なカフェの店員のイメージ通りの仕方でコーヒーを運びます。
まとめると、私たちはカフェの店員でも学生でも何者でもないはずなのに、ある文脈においては自分で自分にその役を与えます。その方が便利だからです。
なぜ便利かというと、カフェの店員をしているとき、観念的イメージを自分に当てはめることなしに毎回毎回の全ての選択を自由に科すとなると大変だからです。
本来は何者でもない自分に特定と役やイメージを与えてそれを演じているような感覚を自己欺瞞と僕は言っているのですが、これは他者との対話の場面でも多く見られます。相手にどのように見られているか不安だから大人しい人を演じようとしたり、逆に明るい人間を演じてみたり。
これは一応は意識下で行われていることだと思っていますが、無意識の領域でなされていることかもしれません。自己欺瞞的な態度が意識下であるか無意識下であるかという問題についてはまだ答えが出ていないので一旦保留にしておきます。
今回の日記は、自由であるのがつらいということだったのでそこから逃れる為行われる手段は自己欺瞞的態度の他にも沢山あります。したがってあえてここで自己欺瞞的な態度をそこまで用いなくても良かったかとも思いますが、まぁあくまでここは僕のエッセイなのでみたいな免罪符的な説明を添えておけば許してもらえるかなと思ってます。笑
余談ですが、自殺率は戦争がある時はない時に比べて低い傾向にあるそうです。
これは自分の存在の意味を考えた時に直面するある種のニヒリズム(虚無感)的が政府によって与えられるナショナリズム的価値観によって取って代わられたことに起因すると思われます。
この例でもわかる通り、自分の選択には、とりわけそれが自分の人生に大きく関わることに関しては非常に大きな不安がついてくるのです。
自分の人生を自由に決定することへの不安から旧ソ連の共産主義やナチスの全体主義的思想に傾倒する者も多くいたことでしょう。
イギリスの作家、ジョージ・オーウェルやオルダス・ハクスリーは人間のあらゆる重要な選択を政府によって管理するという行きすぎた社会主義の世界を描きました。
それはおそらく、私たちが悩むのは自由であるからであり、その自由がそもそもない状態であるならば我々が陥る虚無感をも取り除くことができるのではないかということを提起することが彼らの目的の一つにあったことでしょう。
では、私たちの幸福という次元で未来を展望した際に、その私たちの自由というものから目を背ける、若しくはそれを何か別のものに委ねることが良いとすることができるのでしょうか。
間の根源悪とすることができるのでしょうか。
また我々はその自由を悪の根源としてではなく、生の根源として生きることはできないのでしょうか。
柚香の写メ日記
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自由ってつらいですよねぇ柚香