「真実は人間と人間の交換から始まる。」
『真理伝説』 Jean-Paul Sartre
先日、ふと友人たちと新海誠監督の映画の話になったので、彼の作品で1番話題になった『君の名は』を再度観かえした。その中でとある違和感を感じたので、今回はそれについてお話ししていこうと思います。
作中の大きな出来事として主人公の瀧くんとヒロインの三葉さんの身体が入れ替わるということが挙げられる。
そして、当然初めに入れ替わった瞬間は彼らの身体的な構造の違いに驚き、主人公、瀧くんは自分の胸の膨らみに戸惑うのだ。
ただし、彼らはすぐにその新しい身体を受け入れ、元の身体と同じ仕方で動き出し、その体の持ち主が属する生活や社会的集団へと向かう。
僕はこのシーンに強い違和感を覚えた。
もし僕が他の人と入れ替わったならば、その瞬間に嘔吐してしまうと思う。僕らの目の前にあると思われる赤いリンゴはその赤いリンゴという姿でそこに存在していると思われる。しかし果たしてそうだろうか。
18世紀、ドイツの哲学者イマヌエル・カントは主体が物体に先行して存在し、その主体の認識スケールが客観を従えると先行すると主張する。例えば、イヌと人間で網膜による認識スケールは変わってくる。イヌは人間より判別できる色が少なく赤と緑の区別ができない。したがって僕らが当たり前のように赤いリンゴと緑のリンゴを区別できる様にイヌはそれらを区別できないのだ。
この様に、僕らは自分たちの主観的な認識スケールにおいてのみ目の前の物体を認識する。
では、それは人間同士の間ではどうだろうか。答えはわからない、が正解である。特にわかりやすい例だと、味覚や痛覚といったものだろうか。人によって耐えれる痛みには違いがある。そして、自分の腕をつねった時と同じ強さで相手の腕をつねった時、どちらの痛みの方が大きいか数値化して比較することはできない。
これは視覚においても同じで、僕が今までの経験的に赤色だと認識していたものは他人からしたら全く違う色に見えているかもしれない。
彼は僕が今まで青色として認識していたものを赤色だと思っている可能性もある。
しかし、それを知ることはできない。
カントは物自体に到達することはできないという。
物自体とはその物体本来のあり方であり、僕らの認識が自分の認識スケールに依存している以上、その物の色や形は僕らの脳の中に現れているものとして捉えるしかなく、その物自体が本当はどのような色をして形をしているのか知ることはできない。
そして、前の議論を踏まえると、横の人と同じものを認識しているつもりでも全く違った様態に見えているかもしれないということである。
では、他者と全く同じ世界を見ているとどう知ることができるのか。
そのためには身体を入れ替えるというのが一つの方法となり得よう。
僕の身体を隣の人と交換した場合、僕はそれ以降、隣の人の認識スケールによって世界を掌握する。そして、その色や形が自分自身の身体にいた時と同じように見えていたならばその物は少なからず、自分と隣の人との間では共通のものとして認識されているとわかる。
『君の名は』の話に戻ると、もし瀧くんと三葉さんの認識スケールに差異があった場合、身体を入れ替えた瞬間に世界は全く違うように見えるはずである。
しかし、彼は身体が入れ替わった瞬間にその身体的差異に驚いたのみで、彼の脳に現れる物体の現象についての言及は見受けられなかった。つまり、彼らは同じ認識スケールを共有する他者だったのだ。
ただ、実際には少なからず人の感覚には個体差が見受けられると僕は考えるため、もし仮に他人と身体が入れ替わったならば、物は全く違うように見え、匂いや味、物を触れた時の感じ方などの差異に違和感を覚えるだろう。
この様に、僕らは何かを認識する為には自分の認識スケール内においてのみそれを捉えることができる為、それがどう他者に見えているのか知ることはできない。
つまり、結局あの子が世界をどう見ているのかはわからないのだ。
ただし、ここで新海誠さんを批判したいわけでは決してない。
彼はとりあえずの世界の真実に到達する為に身体を人間と人間を入れ替える方法をとったとも言えるのではないか。
柚香の写メ日記
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『君の名は』から読み取る他者論について柚香