深夜にそれは起こったのです。今になってはその時、どのような夢を見ていたのか覚えていないのですが、なんとなく目が覚めたらので枕元に置いてある時計を確認しようとベッドランプに腕を伸ばしました。
かちっとボタンを押し、光が部屋を満たすことを期待していた僕はそれが上手くいかなかったことに酷く動揺しました。
ボタンを押せば光るはずのランプは、そうにはならず、ただ生ぬるい暗闇が広がるだけだったのです。
僕は急に、鉄道の駅を降りてはじめてやってきたホテルか山小屋の部屋にいるような感覚に襲われました。自分の部屋がランプが付かなかった事で全く別のものに変わってしまったのです。というのも、照明が変わるだけで、寝室に関する習慣が破られてしまったからです。僕にとっては、習慣のおかげで寝室は何とか耐えうるものになっていたのかもしれません。
私たちは、朝目覚めた瞬間から夜寝るまでの1日で数えきれない程の選択をしています。例えば、朝ごはんは何にしようとか、通勤通学の電車でなにをしようとか、誰をディナーに誘おうとか。ただし、それは私たちの意識の表面で行われている選択であり、それら以外にも意識の深層で、おおよそそれは無意識と呼ばれる働きによって行われているものもあります。後者の例で挙げるならば、駅から職場までの決まった曲がり角を曲がる事や、着替えの順番、歯ブラシの持ち方や歩き方などですかね。
それらの意識の表面に現れてこない選択のことをここでは「習慣」と呼ぶ事にします。
私たちは、あらゆる行為を1日にしますが、それらは全て選択の余地があります。そして、その無数の選択肢の中から一つを選ぶのです。何かを継続して行うということも連続した選択の否定を選択しているという点で選択と言えます。(歩くことをやめるということを選択しない。→選択しないという選択をしている。)
謎に包まれた人間の脳において、選択を行うのは前頭葉でありますが、その前頭葉の1日の活動には限界があります。したがって重要度の低い選択はその前頭葉においていちいち他の選択肢と吟味し、取捨選択をする以前の段階、つまり無意識に落とし込みます。要するに、習慣の次元に移行させるとも言えます。
私たちが生きていく上でその習慣化作用が上手く機能しない状態が、酷く耐えがたいということを想像するのはそう難しくないでしょう。
右足を踏み出した次は左足を踏み出す。この程度のことを習慣なくしてどう持続した生を送ることが出来ましょうか。
このように習慣化作用は、私たちの生活において重要な地位を占めているという事は明々白々ではありますが、それから逸脱するという事もまた単調な毎日から抜け出し、生に彩を加える事ができるでしょう。
普段歩く道を少し変えるだけで新しい発見や出会いがあるかもしれません。いつもは一人で通るそこを誰かと一緒に歩けば何かまた違った世界に見えるかもしれません。
少し話しから逸脱しますが、小説家の役割の一つは、日常の中から美しさというものを抜き取り言葉にして私たちに提示するということであると僕は考えています。そしてそれはセラピストにも同様な事が言え、駅からホテルまでの道、食事をとっているレストラン、そこら中に私たちが知らない、いや、それは確かに知ってはいるのだけれども、知らない世界が広がっています。その世界を未知の、彼女が知らない世界に足らしめるのは僕たちの役割であるのです。
私たちは自分の身を守るために習慣を作りますが、またその生を享受するためには自ら創造した習慣からの逸脱が必要なのです。
その手助けとして、より美しい習慣からの逃走劇の担い手となるのが僕らだったらそれはなんて素晴らしいことでありましょうか。
柚香の写メ日記
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習慣化の両義性について柚香