【『感動していたことに最近気づいたということ』】- 柚香(santuario)東京/性感マッサージ

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柚香の写メ日記

  • 『感動していたことに最近気づいたということ』
    柚香
    『感動していたことに最近気づいたということ』

    これは文章を書いたことのある方なら共感していただけるかと思うんですが、僕は何かを書くときはまず、その書きたい「何か」を頭の中で構想を描いてテキストに変換していくんですが、その内容は決まっていても、どう書き始めらいいかわからないということ多々あるんですよ。まぁこれは余談ですけど笑
     
    今回、僕が書きたいことは、「感動していたことに最近気づいたということ」についてです。導入部分を読んでいただいた方はもうお分かりでしょうが今回の日記は、割と口語調でいきます。そういう気分だったからです。口語調の方が、目の前に人がいると思って書けるので、スラスラ言葉が出てくるんですよ。
     
    とりあえず、本題に移ります。前文で「感動したこと」と明記したんですが、ほかにこの感覚を一言で表現する単語が浮かばなかったので仕方なくそう書きました。s’émouvoir [仏: 感動する、動揺する、混乱する]という言葉が一番しっくりくるかもしれません。そして、この感覚はずっと昔からあったのですが、つい最近までそのことに気づいておらず、二十歳を超えてようやく言語化できるようになりました。
     
    京都に行きつけ(と言ってもいい)の喫茶店があるのですが、そこの店主さんと会話をすることが好きで、先日も大学終わりにそこへ読みかけの文庫本を持って、訪れました。その日は生憎の雨だったので、お客は僕しかおらず、小説も幾許か退屈だったため、カウンターを対にして立っている彼と、会話を興じることにしました。
     
    彼は、最初取り止めもない幾らかの質問(読んでいる本の内容など。)を僕に尋ねた後、ふと思い出したように、こう言いました。
     
    「人と話していて、その人にも自分と同じような歴史というものがあるって不思議な感じしない?」
     
    それを聞いた時、僕はカウンターの向こう側に転がり落ちてしまうのではないかという勢いで、体をゆすって共感をしましました。おそらくこれを読んでいる人の多くは、「何を当たり前のことを」というかもしれません。でも、これは僕にとって、とても重要なことだったのです。
     
    本屋に行くと、「コニュニケーションのノウハウ」みたいな本が嫌でも視界に入ってきますよね。そういう本は、以下の典型なんですが、どこか人間を機械的なものだと捉えている節が感じられるんですよ。あくまでそんな感じがするというだけですが。
     
    でも、僕が意識があるように(もちろん意識なんて存在しないと主張する人もいると思いますがその議論はひとまず置いておいて、デカルトのコギト、「我思う故に我あり」に則って進めます。)他者にも意識はあるんですよ。(これもなかなか難しい問題でここを掘り下げると僕の一生は終わってしまうでしょう。)
     
    とりあえずは、まぁ大体の人は、自分に意識があるというように、横にいる人にも意識はあると思っていますよね。
    おそらく頭では、他人にも意識があるとわかっているのですが、日常生活を送っていてそれを度々忘れてしまうんですよ。というか、普段そんなことあまり意識しない気がします。
     
    例えば、道で歩いている人にぶつかったとします。その時に、反射的に「すいません」というと、相手はニコッと笑って手を振ります。すると僕は、「すいません」という言葉を相手に発したことで、相手の中のニコッとするスイッチが押されたのだ、みたいな感覚になります。
     
    朝、マンションのエレベーターで一緒になった人に挨拶をすると、挨拶が返ってきます。しかし、僕は挨拶をした瞬間に1秒も経たず、同じ言葉が返ってくると予想します。だから、その返事をされたことに対して、全く驚くべきことはなく、すぐそのことは自分の記憶の端っこに追いやられ、彼に意識があるなどと考えたりもしません。
     
    なぜなら、この程度のやり取りであれば、相手が、意識的存在ではない、AIが搭載された人形ロボットでも見分けがつかないからです。
     
    僕は人と話すときに、相手の使う言葉がどのような意味で使われているか解釈しようとします。この時、相手が多くを語ってくれる人であれば、それを材料に考えますが、そうではない時は、その人の性格や歴史をも考察の材料とします。そして、相手も自分に対し、同じプロセスを踏んでいると僕が気づいた際、先に表現した「s’émouvoir 」のような感覚になるのです。(もちろん他にもありますが。)
    そして同時に、その人の意識が自分の意識に侵入してくる感覚に襲われるため、否応でもその人の意識を認めざるを得ません。
     
    またこんなことも思います。
     
    自分の意識は、自分の内部から逸脱することはできません。なぜなら、自分の意識を構成する知覚は、その対象(光、空気の波、肌に触れた物質など)を、自分の感覚器官を介して現れた像のようなものを意識において認識します。その時、自分の意識は外部に向いていると錯覚しますが、あくまで、感覚器官に届いた情報を処理しているため、全て意識の内部で現象していることになります。すると、この対象は本当に自分の外部にあるのか、もしあるとしても、それを認識した瞬間に存在し始めたのではないか。
     
    おそらく、喫茶店の店主さんも同じようなことを考えていたんだと思います。常識的(この言葉はあまり好きではないですがあえてここでは使います。)に考えて、自分が存在するように、相手も存在します。しかし、その相手は存在しないかもしれないし、今この瞬間に存在し始めたかもしれません。そして、ある瞬間に彼は気づくのです。目の前の人が存在していて、歴史があると。そして、歴史があるということは、言い換えると、意識があるとも取れるため、彼も他人に自分と同じように意識があると実感し、不思議な気持ちになったんだと思います。
     
    僕は、彼と会話をすることが好きです。なぜなら、彼はいつも自分の存在を僕に主張してくるような話し方をするからです。(ただしそれを形容しようとするとうまくいかないが。)そのおかげで僕は彼の意識の存在を常に疑うことはないのです。
     
    人と会話をしていて、目の前の人の存在を疑うことはあまりないかもしれませんが、その物質的な存在は認めても、その意識の存在は忘れてしまうことがあるでしょう。また、会話をしているとき、その意識を認めてもその人が不在の時は、彼の意識を感じることは難しいでしょう。
     
    特に、インターネットを介したコミュニケーションにおいて、メッセージの先に自分とは別の意識があることを忘れがちです。しかし、それは確かにあるのです。
     
    ここまで、認識論やら存在論のようなものを書いてきましたが、最後に僕は倫理について書きます。
     
    僕は、他者に対し倫理的に振る舞おうとする時、それは、その他者の意識の存在を理解することから始まると思っています。そして、その意識の存在を理解する瞬間は、相手との対等なコミュニケーションであるとも。(これには、まだ十分な考察の余地があります。例えば、ある学者は、コミュニケーション以前の、相手に顔を認めた瞬間に倫理は始まると言います。)
     
    もちろん、他者の意識の存在を認めずとも、他者に優しくすることはできます。しかし、それはあくまで機械的な仕方で相手に接しているに過ぎないのです。
     
    つまり、倫理的に、道徳的に振る舞うには、相手との直接的なコミュニケーションが不可欠なのです。
     
     
     
     
     




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