【『カフェにて』 (断固検閲拒否‼︎)】- 柚香(santuario)東京/性感マッサージ

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柚香の写メ日記

  • 『カフェにて』 (断固検閲拒否‼︎)
    柚香
    『カフェにて』 (断固検閲拒否‼︎)

    先日、大学の昼休み、近くのブラッスリーで昼食をとっていた。
    ぼーっと授業で取っていたノートに目を通すのには、そこは最適な場所だったのだ。僕は、いつものように、シェフの気まぐれランチのメニューを注文する。
    給仕の若い娘はマニュアル通りの動きで淡々と注文をとり、最後に思い出したような笑顔を僕に向けると、さっと何事もなかったように、もと来た道へ戻っていった。
    僕も、最近新調したばかりの皮のカバンから、使い古されたノートを取り出し、もう過去となってしまった自分に書き殴られた文字の羅列に目線を下す。
    この中にどれだけ役に立つ情報があるのだろうか。
    いや、そもそも社会に流布しているほとんどは、それが誕生した瞬間には無益なもので、それ自体が需要を作り出している。
    そういったプロセスで、原始的生活から我々は脱したのだ。
    すると、今日のこのノートの需要は一体なんだ? 
    そんなことを考えていると、すぐ後ろから、小綺麗なマダムとその子供との何気ない会話が急に僕の中に入り込んできた。
    意識だけ背後に向け、目線はまだ役に立ちそうもないノートにある。おそらく彼の母親であろうその女性は、必死にその子供の「箸の持ち方」を矯正しようとやっけになっている。
    どうやら彼はまだそれをうまく使いこなせづ、独自の仕方で目の前の皿に乗っているふふやけた仕切りにポテトを突いているのだ。
    そして、彼の母親は呆れたようにそれを眺めていた。
    黙々と黄色い油でコーティングされた細長い棒を貪る子供であったが、はっとしたように母親に以下のようにたづねた。
     
    「お箸の持ち方は誰が決めたの。」
     
    僕は、その瞬間、昼下がりのカフェの喧騒が消え、静かな無の、空気すら入り込む隙間のない、まるでエーテルのようなものに満たされた世界に放り出された感覚がした。
    確かにそうだ。彼の言い分は正しい。彼女、母親は、その箸の扱い方のモラル、その道徳的規範を何も与えてはいない。そう、物事には全て理由がある。そしてそれを他者に押し付けるとき、両者が納得する理由を共有しなくてはならない。さもなければ、彼は「自由」ではないからだ。彼がその物体をどう扱うかは彼の自由だ。その方法を提示するには母親は彼の納得できる理由を説明する義務がある。彼の自由を母親が奪っているのだ。
    「善」は「自由」だと見なすにはあまりに早急すぎる。しかし、その自由の欠落は「悪」であるということは疑いえないことだろう。なぜなら、これまでの日記で幾度もなく示してきたように、人間は白い紙のようなもので、その本質は自分の自由な選択の結果によって常に定義されなければならないからだ。その自由というものを認めないとなると、人間の本質は幻想と化してしまうだろう。ここで一つ注をつけておかねばならないのだが、この際に自由が失われた状態を「不自由」と明記すると、身体的な次元における「不自由」を意味してしまうことからここでは、フランス語における「libre」の対義語の一つ「forcé」(強制された、強いられた、不可避の)といった単語を当ててみよう。
     
    母親は、子供の問いかけに次のように答える。
     
    「お箸の持ち方はみんなのルールなのよ。そこを誰が決めたのかなんて問題にはならないの。みんなこのように持つことがマナーだと思っているから、変な持ち方だとお行儀が悪いのよ。」
     
    確かに母親の言い分は正しい。僕も例に漏れず、周りが提示してきた仕方で箸を扱っている。そして、その理由は、その方法が一番慣れている、扱いやすいという点のほかに、自分が礼儀がなっていない人だと周りに思わせるのが嫌だというのもある。その点で、母親の主張は的を得ているのだ。
    しかし、僕は直ちに、その母親に駆け寄って彼女の主張に捕捉したい衝動に駆られた。確かに、作法というのはある程度の集団において共通認識された一つの規範であり、そこから逸脱するとその集団から、徳のない人、知を欠いた人だと見なされてしまう。したがってそれを回避するために、作法を守るということは納得である。
    しかしそこで、少し視点を変えてみよう。サッカーやマラソンにおいて、その作法が問題になるだろうか。ロナウドがフリーキックを蹴る際に、その蹴る作法について誰が言及するか。マラソンにおいて、キプチョゲがどのような走り方をしても誰もそれを咎めることはないだろう。それらのスポーツにおいて、問題になるのはもっぱら、その結果であって、方法ではない。彼らが、どんな仕方で勝利しようとも、それは一つの勝利であって、それでしかない。他方で、能楽や茶道というように日本の伝統的な芸能において、最も重要視されるのはその作法である。決まった仕草でそれを遂行することで、その美しさというものを見るのである。箸の持ち方においても同様なことがいえよう。その理由に論理的な根拠はないのだ。
    そういうとそれにこういった反論が下るだろう。「その方法が一番便利で美しいからだ。」と。しかし、それがなんの理由にもならないのは明白である。なぜなら、利便性美しさを自覚するのは一つの認識する主体であり、それはその主観を脱却して他者にもそれを当てはめることはできないからだ。ロナウドがどんな蹴り方でボールを蹴ったところで、本人がその仕方が一番良いと判断したならば、それでいい。
    だからと言って、ここで、能楽や茶道を批判しているのではない。むしろ、僕もそのような形式美というものを好んでいる。僕が主張したいのはこうである。
     
    「自らの意志によって、自分の行動を束縛することは決して悪ではない、そこに喜び、快楽、目的などがある場合は進んで自分を差し出すべきである。ただし、それはあくまで自分の意志による自由な選択によるものにおいてのみである。」
     
     茶道を好んでする際に、その流派が気に入らず、別の流派に移行することはよくあることであろう。(日本の伝統芸能についての知識は甚だ乏しいため、もし誤認があったとしても悪しからず。)また、そもそも、茶道という共同体に自ら属す人は、その作法に同意していることが前提である。したがって、重要なのはその集団に属する際に、属するか否かを「自由」に選択できるということが重要である。
    では、再び箸の持ち方に戻るとしよう。上述においては、箸の持ち方の作法というのはその他多くの日本の伝統芸能においてと多くの共通点があることが了解できた。では、我々は箸の持ち方を強制された集団の入会を自由に選択できるのだろうか。答えはできない。我々が日本国内で誕生した瞬間にそのルールはほとんど無慈悲に我々に与えられる。そして、味噌汁を啜るのに、スプーンを使うとなるとやはりそれもマナー違反と咎められる。ではこういうのはどうだろうか。そのルールや規範というものはそのものの所有者に決められるということだ。
    箸の他にも、さまざまな場面で、作法のようなものを強いられる場合がある。その一つにレストランにおける、ドレスコードの文化である。現在では以前ほど多くは見受けられなくなった気もするが。特定のレストランにはいまだに、スーツ着用などのドレスコードが見受けられる。我々はそのレストランで食事をとるのに、店が指定した範囲内の服装を選ばなければならないのだ。この場合、それを我々が不当ということはできない。なぜなら、我々がレストランで食事をとる際に、その利用している空間はいわば、レストランにお金を払って「借用している状態」であるからだ。借用しているという状態はつまり、その場所は客のものではなく、レストランのオーナーの所有物である。そして、そこでの振る舞いは、その貸主によって強制することができる。そのように考えると、箸の持ち方も同様に考えることはできまいか。中世ヨーロッパのように世襲制を用いている国家であればそれは可能だろう。国家は特定の皇帝の所有物とするならば、その食器もその所有物であり、作法を強制することは可能であろう。また、このレストランのオーナーが箸はこうもてというマニュアルでも展開させれば、これまた同じである。
    しかし、やはり今の民主主義国家の日本において、また形式上は国政に宗教が関与できないということからも作法を他者に強制することは難しい。では、我々を縛るものは何か。それは「家族」であると僕は推察した。
    スイスがなぜ、安楽死制度を国家レベルで容認できたか。それは、生命は自分自身の所有物であるという考えに基づくという説がある。他方で日本は、生命は個人の所有物であると同時に、家族の所有物であるという考え方が根付いているように思われる。そのため、自分だけではない生命を自ら投げ出すということは集団における責任の放棄という意見もあり、我が国では安楽死は受け入れ難いだろう。また、たびたび日本においては、一家心中のニュースをテレビで見るが、僕がフランスやその他ヨーロッパの人たちにはその一家心中の心理は理解し難いそうだ。なぜなら、西洋における、生命の考え方は、限りなくその生命の主体に帰属するものであり、何人たりともそれを侵害することはできないと考えられている。(可能だとするならばそれは宗教であるが。)したがって、共同体に帰属するという意識が無意識のうちに強く強制される我が国においては、そのような規範も合理的な根拠を欠いて集団に帰属してしまう。
     
    ここまで長々と論じてきたが、正直、箸の持ち方程度であれば、先ほどの子供のように、合理的な根拠を提示されなくとも、規範に従う、言い換えるとその規範に自分の自由を投げ出すことは難しいことではないだろう。しかし、やはりそれでも、「自由」というのは我々の実存において不可欠である。
     
    僕はTikTokは自分でない他者によって与えられた情報、それのアナグラムによって操作された情報を、受動的に植え付けられる感覚がしてある種の吐き気を感じたためその恐怖ですぐにデリートしてしまったが、そのメディアに自身を捧げるのも個人の選択である。確かに、そこの有益な情報の存在というのは否定できないし、実際のコミュニケーションの場面で共通の似たような情報を保持していれば、話も盛り上がるだろう。
     
    では結論として、何が言いたいかというと、何人たりとも、その個人の自由を奪ってはならないということである。そして、その他人の自由に制限をかけるのであれば、両者が納得する正当な理由がある。例えば極端な例だが、、無作為に他人を殺害してはならないのは、その個人の自由を殺害という自由な選択によって奪ってしまうと、今度は殺害された個人がその自由を行使できなくなってしまうからである。
    つまり、自分の自由な選択というのは他人の自由な選択を奪う手段にはならないということだ。そして、もしそれを行使するならば、両者の合意が必要となる。
     
    箸の持ち方に関しては、確かに、合理的な理由はないかもしれないが、それに従う効用と従わない効用を天秤にかけたときに、前者が下るため我々は仕方がなくそれに従うのだ。
    しかし、やはり、規範やルールに従う効用を考えたとしても、その自由な行為に従うべきことはあるだろう。そういう場面に陥った際に、自分の自由な意志による選択をためらうべき根拠はなにもないのである。

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    カフェに貼られた二枚の肖像画の間にかけられた時計が、1時の刻を鳴らした。時の流れから隔離された肖像画の人物は明らかにこちらを見ている。
    僕は彼らの存在を前にして何もできないが、彼らは僕の存在に明らかに関与してくるのである。
    一瞬、自分とその絵との間に、永遠とも無とも思える空間のみ存在し、それが己にのしかかる感覚に襲われるが、長くは続かない。
    先ほどの若い娘がランチのプレートを運んできたのだ。
    僕は軽く彼女に頷くと、それを合図のごとく再びカウンターの前、彼女の定位置に戻って行った。
    食事を終えた母親と子供も颯爽と店をあとにし、午後のひだまりへ溶けていった。
    僕もそろそろ空腹に乗っ取られそうになっていたので、早速目の前にある食事にありつこうとしよう。




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