【柚の小話 『海辺にて』】- 柚香(santuario)東京/性感マッサージ

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柚香の写メ日記

  • 柚の小話 『海辺にて』
    柚香
    柚の小話 『海辺にて』

    ーマロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食い込んでいた。それが根であるということも、私はもう覚えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。私は少し背を曲げ、頭を下げ、たった独りで、全く人の手の加わっていないこの黒い節くれだった塊、私に恐怖を与えるこの塊を前にして腰掛けていた。そのとき私はあのひらめきを得たのである。ー

    『嘔吐』 ジャン-ポール・サルトル

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    僕は君とのひと夏の思い出をできるだけ鮮明に記述することによってそれを永遠に残しておきたいと考え、この日記を書くことにする。

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    朝の早い時間、薄明かりの中、君との待ち合わせ時間の少し前に家を出た。清々しい風が頬を撫で、今日の旅が特別なものであることを予感させた。駅に着くと、すでに幾人もの旅人が夏の陽気に誘われたかのように集まっていた。僕たちもその一員となり、海辺の町へ向かう汽車に乗り込む。


    車窓から見える景色は、都市の喧騒を離れ、緑豊かな田園風景へと変わっていく。彼女は窓の外を見つめ、何かに思いを馳せている様子だった。


    「今日から楽しみだね」と僕が呟くと

    「うん、どんな冒険が待っているのか」と君はいう。

    「冒険なんて大袈裟だよ。海外じゃあるまいし」と笑うと、

    君は僕の手の甲をじっと見つめながら
    「私たちは常に冒険をしているだよ。」と。

    この時僕は、君の言葉の意味がいまいちよくわかっていなかった。


    駅に降り立つと、海の香りが僕たちを迎え入れる。その瞬間、僕はふと、自分のここにおいての意味を考えずにはいられなかった。側からみたら、即自的に僕らは夏休みに旅行に出かける男女にしか見えないのだが、個々の人間にはそれぞれ「歴史」があり、主体性の側から見るとそれは単なる旅行をする男女ではないのである。しかしそれを我々は忘れがちだ。プラットホームに並べられている椅子は即自的存在である。それは存在した瞬間に意味が生まれているからである。そして、僕らも他の観光客の中に埋もれていると、その観光客からは椅子と同じような即自存在になる。


    広がる海は無限であり、僕たちの小ささを際立たせる。君と共に砂浜を歩きながら、この瞬間が永遠に続くように感じられると同時に、その儚さも痛感する。


    砂浜に足を踏み入れると、その柔らかさと温かさに驚いた。君は波打ち際で無邪気に遊び始め、僕もそれに続いた。波が足元に触れる度に、心地よい冷たさが広がる。青い空と海、そして波の音が、僕たちの心を癒していく。砂を手のひらで掬おうとするや否やそれがこぼれ落ちていく。まるでそれに魂が宿っているかのように。僕は砂にある種の「不気味なもの」のような感覚を抱いた。が、それはすぐに過去のものとなる。
    残ったものは、波の静けさと、君の笑い声だけであった。


    昼食はビーチサイドのカフェで、新鮮なシーフードを堪能した。彼女の瞳が一層輝き、僕の胸には満足感が広がった。


    「ここ、本当に素敵ね」

    「僕が見つけたんだもの。当たり前だよ」と僕が言うと君は笑った。


    午後は、ビーチで静かな時を過ごし、読書や昼寝に興じた。君の横顔を眺めながら、こんな穏やかな時間がずっと続けばいいと思った。夕方、太陽がゆっくりと水平線に沈み、海が黄金色に染まった。その美しさに僕たちは言葉を失った。


    「この景色、一生忘れないわ」と君が呟いた。

    「本当だね」と言って僕は君の手を強く握った。


    ただ、今、君との思い出を綴りながら僕はある両義的な考えを持ち始めていた。君との旅行を書くことで僕は記憶を保存するどころか、それを壊しているのではないか。なぜなら君と見たあの海の美しさ、料理の味、波の音は僕はもう二度と同じものを見ることはできないし、それを誰かに語ると言うこともできない。時間というのは過去から未来へ暴力的に一方通行で流れて行くものであって、そこで起きた出来事もただの一回きりである。その一度きりの記憶はだんだんと欠けていき、僕はそれを「美しい」などと言ったありふれた言葉を無理やり当てはめて、その言葉があの生き生きとした思い出に取って代わって行くのではないかと。


    宿に戻ると、僕たちは温泉でゆったりと疲れを癒した。温かい湯に浸かりながら、僕たちの心も次第に和んでいった。その夜、海のさざ波の音を子守歌に、僕たちは深い眠りに落ちた。


    早朝、まだ薄暗い中、僕と彼女は海辺を散策することにした。朝日の差す海の光景は、まるで新たな一日の祝福のようだった。彼女の手を引きながら歩くと、心が温かく満たされるのを感じた。波打ち際を歩くうちに、僕たちの間に流れる静かな時間が、言葉以上の意味を持つように感じられた。そう、言葉以上の意味を持つようになったのだ。僕がこの日記で使う「美しい」という言葉の意味は僕と君にしかわからない。それを僕は今語ろうとしている。


    朝食は地元のパン屋で、焼き立てのパンを楽しんだ。彼女の笑顔が僕の心にさらなる疑念を運んでくれる。その後、僕たちは灯台までのハイキングに出かけることにした。道中、自然の美しさに感嘆し、写真を撮り合いながら、未来の夢を語り合った。君の笑い声と僕の微笑みが、風に乗って広がっていく。


    灯台に到着し、その頂上から眺める風景は壮観だった。広がる海原と青空の境界が、僕たちの未来を予感させるようだった。


    ここまできてようやく、僕が葛藤していたことに結論づけることができよう。確かに僕は君との思い出をできるだけ鮮明に記述しようとした。しかしやはりそれでも写しきれない何かがある。言葉というのは過去を記述するのに適しているように言われているのだが完全ではない。ただ、それを未来に役立てることはできるのかもしれない。過去にこの日記で記した「美しい」という体験をしたという事実が大切なのではないか。例えば完全に君との思い出を忘れててしまったとしてもこれを見返すことによって、過去に君と「素敵な夏を過ごしたこと」という事実が未来の励みになる。そして、「前に〜のようなことがあったね」と君と再びそれを語ることによって、また新しい種類の似たような経験に踏み出す希望にならないのかと。


    「ここに来てよかったわね」と君が囁いた。
    「うん、君と一緒で本当に良かった」と僕も優しく応えた。


    その後、僕たちは名残惜しい気持ちを抱きつつ、宿へ戻り荷物をまとめ、帰路に就くことにした。帰りの汽車の中で、僕たちはこの旅の思い出やこれからの計画を語り合った。君の肩に頭を預けながら、僕らは揃って窓の景色を眺めていた。


    「また来ようね」

    「もちろん」と僕は約束した。


    こうして、一泊二日の海の旅は終わりを告げた。僕たちの心には、かけがえのない思い出と、新たな絆が刻まれた。最後に君が言った「冒険」の意味がわかった気がした。僕らは別に旅をする必要がないのだ。なぜなら、同じ波は二度と見ることはないように、今日の1日は個別的な1日で、それは二度と体験することのできない一日だからである。


    僕らの旅の終わりは、新たな始まりを予感させるように、僕たちの未来を明るく照らしてくれた。この冒険は、僕らのまた別の冒険の始まりのような感じがした。




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