【マルクスの宗教批判から女風の在り方を分析する日記】- 柚香(santuario)東京/性感マッサージ

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柚香の写メ日記

  • マルクスの宗教批判から女風の在り方を分析する日記
    柚香
    マルクスの宗教批判から女風の在り方を分析する日記

    彼のカール・マルクスは宗教を民衆のアヘンだとし批判しました。我々が不安や絶望に陥った時、絶対的な神に縋るということは、その問題に対してなんの解決策にもなっていないのです。そして、産業革命以降、その神秘主義は科学によって追いやられ、ニーチェが言うように神はもはや不要の産物と化したのです。

    しかし、我々が生きる上で、その自分の実存(存在価値、意味)が危うくなった時、絶対的な観念、他者に自分を定義づけてほしいという欲求は認めざるおえません。今日、特に日本では、中世ヨーロッパのように人間の道徳の規範の根拠となるものをキリスト教などの一般的な宗教において考えるものは少なくなりました。しかし、代わりに我々は、ある特定の「他者」に以前のキリストが担っている役割を課します。女性の性の解放を目指すフェミニズムの歴史においては、いわゆる男性に従属した形でしか自己の実存を目指しすことができず、男性を通じてしか社会に接続できない構造を批判の対象にしてきました。日本、韓国では特にアイドルグループの存在が指摘できると思います。アイドルの語源はギリシャ語、エイドローンから派生してできた言葉と言われ、その意味は「偶像」、「実態のない神のようなもの」です。我々は実態のある具体的な人間をある種の完全な観念に見立てているのです。そして、我々セラピストも時に女性の中で観念的な対象となるのです。そして、ある一定の女性はその観念に到達し、一体となることで自己の実存を担保するのです。(もちろんそうでない人の方が多いと思っているが。)これは、女性だけでなく男性にも言えることで、フロイトの精神分析の中で以下のことが度々主張されています。「幼少期、限りなく自己同一的な他者である母親からの接続を早い段階で遮断され、それを乗り越えらるずに青年期に突入すると、性愛の場面で相手を母親の役割を与えた偶像のように見立てる」と。これはエディプスコンプレックスと呼ばれ、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟においての父親殺しの話や、エヴァンゲリオンの碇シンジがそれにあたります。
     
    他者を自己の内面に取り込み、その存在を観念として捉えることは別に特別なことではありません。自分が現在や将来に思い悩み、その指針となるものが必要に感じることはよくあることでしょう。自己啓発本や占い、〇〇セミナーが流行る原因はそこにあります。
     

    しかし、絶対的な神なる他者は世界に存在しているのでしょうか。


    答えはもちろんいません。それはあくまで観念の話であり、実態はありません。(完璧な三角形が実在しないように。)


    では、そもそも実態のある他者を観念化し、以前の神の役割を当てがい、そこに身を委ね、そして自分の人生まで捧げると言うことにどういう問題点があるのでしょうか。

    それは、自分の幸福の達成が他人の行為や気分に依拠してしまうということです。例えば、戦前フランスでは(今も多少なり根強く残っているが)、女性の職業選択や政治参加、学問を続けることは制限され、自分の自由な意志でそれを選択し、卓越すると言うことができなかったのです。ではどのように自分に実存、意味を与えていったかというと、社会的に地位の高い男性と結婚するしかありませんでした。彼女達は本来、男性と等しく自己を超越する活動(労働やスポーツ、芸術、学問)によって自分を定義づけいのですが、社会的慣習や文化、構造によって思春期あたりでそれらの活動を取り上げられ、代わりに家事やマナーの習得など男性の眼差しを獲得できるよな修行を与えられます。もちろんそれらの活動が男の眼差し獲得のために存すると言うわけではないですが、そのような機能を持ち合わせていると指摘したかったのです。そして、不本意ながら男性の中でのみ実存を定義できなかった彼女らは、自分の人生は男によって意味が与えられ、その幸福も彼が握っていると考え始めます。彼女らはできるだけ社会的地位が高いもの、もしくは道徳的規範があったり、容姿が卓越している男性を追い求め、それに神の役割を当てがいそれに従属します。なぜならこうするしかないように思われ、社会の波に抗い自分で自己を定義づける活動に差し向けるより早かったからです。これは、男性、女性どちらが悪いというわけでなく、その社会構造に問題があったと当時の哲学者は分析しています。

     
    このように、歴史においても人間は実態に偶像的な価値を与えてそれに身を委ねることが多く見受けられますが、やはりそれは脆く、本質的な実存にはなり得ません。

     
    では、どうしたらいいのでしょう。ジョンポール・サルトルは自身の著書の中で、自分の実存を自分で定義すると言うことが真の自由でり、その自由の責任を負うことが幸福に繋がると言います。人間はその自由な刑に処せられていると言いました。人間は自由であり、その自由さが人間を苦しめているのだと。民主主義国家の日本では、職業や学問、結婚などの自由が憲法によって担保されていますが(一応)、それを自分で選択し、その責任を負うと言うのは中々な苦痛です。
     

    私たちは日々、苦悩を抱えて生きていますが、それらは選択の自由のせいだとも言えます。かといって社会主義に傾倒するわけにもいかないため、その責任を自分で背負わなくてはいけません。

     

    僕がセラピストとして活動してから、一定数の女性は自身の生活の不安や苦悩から女風の業界に飛び込み、特定のキャストさんに沼るといった現象が多々見受けられます。その中には、この業界を一つの観念と見立て、その結果によって自分の人生に大きな影響を与えられてしまっている人もいるでしょう。しかし、先に指摘したように、実態を神と見立て、それを拠り所とするのはアヘンに狂うのと同じであります。
     

    確かに、自分の存在、選択の責任を自分で負えと言うのは中々酷な話だと思います。なぜなら、我々の存在価値は自分で与えなくてはいけないくせに、自分の存在理由は自分の恣意とは絡まない偶然の産物だからです。
     
     
    女風の世界は本来、宗教として機能してはいけないのです。それでは泥沼にハマっていくだけです。ではそういう利用の仕方が理想なのか。それはサプリメントとして使うと言うことです。サプリメントはフランス語でsupplément,で追加や補足、トッピングという意味です。ラーメンの本質は麺とスープですよね。その他のトッピングがなくてもとりあえずはラーメンとして存することができます。そして我々セラピストはあくまでそのトッピングの一部であり、あなたの人生になくても構わないものです。もちろんいいトッピングがなければ美味しいラーメンにはなり得ませんが、あなたがそのトッピングを選択するか、自分の本質を磨くかは自身の自由意志にかかっています。



    ※ 今回は多数の参考文献があるのですが、それの記載は割愛しております。気になる方がいらっしゃればぜひDMまで。




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