「近畿地方は、昨日までの晴天から打って変わり、朝から1日はげしい雨が降り続けるでしょう。」
京都駅前のロータリーで拾ったタクシー中、カーラジオの音にぼーっと耳を傾けていた。聞き馴染みのないそのアナウンサーの声は、窓を叩く雨音と共にゆっくりと交わる。5月に入り、洗濯物を外に干せない日が続いていた。湿り気のある空気に耐えられなくなったのか、運転手は何度か当たり障りのない質問を投げるが、私がそっけなく返したためにだんまりと運転に集中し始めた。いつの間にかラジオの番組は移り変わり、フランク・シナトラのベストアルバムに収録されている『fly me to the moon』がその冷たい車内を取り繕う。「私を月へ連れて行って」 彼はそう歌うが、一体私はどこへ向かうことを望んでいるのだろうか。
私たちのタクシーはそのまま鴨川に沿って南北に伸びる川端通を幾分か上がり、有名企業のビルが立ち並ぶ御池通りへ差し掛かる。豊臣秀吉の命で架けられた三条大橋の一つ上を西へ渡ると、規制が厳しい京都にしては珍しい、高層のオフィスビルが立ち並ぶエリアだ。
そして、景観の規制が厳しい京都では珍しい老舗の高層ホテルの前で私はタクシーを停めた。支払いをしようと財布を開くが紙幣が上手く掴めない。ここで初めて、私が彼と会うことに緊張していことを実感した。
出会いは昨年の秋。プレトリア出身の実業家がTwitterを買収し、それを半ば強引に改名させた頃、例のように仕事の空き時間、話題のカフェや推しているアイドルの情報を探そうと、なんとなくスマホの画面をスクロールしていた。そんな時、ふと一枚の写真が目に入る。最初はただ、昔飼っていた犬に似ているなと感じただけだった。しかし、その投稿を遡るや否や彼についてひしひしと興味が湧いてくる。なぜなら、彼の写真とともに綴られた神秘的な文章が何となく私の心に溶けていくからだった。まるでそれは紅茶へ垂らしたミルクのようにじんわりと。
それから何日間も一回り年下の彼へのDMを躊躇っていた。唯一何でも話せる大学時代の親友からの後押しもあり、遂に初めてのメッセージを送ることになる。それから1日に数度の彼とのやりとりが次第に楽しみになっていた。少し前、使っているiphoneが壊れたので、新型機種に新調したのだが、いかんせん仕事や親友との連絡にしか使っていなかったのだが、彼の存在がそんなスマホをまるで宝物のようにした。
後々分かったことなのだが、私の幼い頃からのお気に入りの小説が彼の家の本棚にあったのだ。今度会う時にその話をしようと密かにスマホのメモに記しておいた。
遠ざかるタクシーを見送りながら、中に傘を忘れてきたことに気づき、深いため息をついて、相変わらずどんよりな空を見上げていると、紺色の影が私に覆い被さる。
「かおるさんですか?」
一瞬それが私を表象している名前だと気づかなかった。なぜならそれは生まれてから何万回と私に向けられてきた単語だが、彼の口から発せられた音はそれらとは全く違う存在のように感じられたからだ。
写真よりずっと背の高い彼が傘を忘れた私に少し困った様な笑みを浮かべて首を傾げた。
これは私と彼との奇妙な関係の始まりに過ぎない。人との出会いに必然性などといったものはないと思う。それは単なる偶然の相対にすぎないからだ。ただ、偶然の結果として出会った彼と顔を目配せをした瞬間に私たちのその関係を描く真っ白な画用紙にポツンと桜色の絵の具が垂らされた様に感じた。
柚香の写メ日記
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fly me to the moon.柚香