私達は世界の「偶然性」というものに日々恐怖しそこから無意識的に逃れようとしています。
例えば、自己の存在、他者との出会い、それら全ては偶然の産物であり、それらの存在に先行するような必然性はありません。
あなたが今、道に落ちている石に躓いたとして、その石がなぜそこにあったのか、なぜその石だったのか、なぜあえてその石に躓いたのか、それはただの偶然というしかありません。私達の意志に反してそこに存在しており、僕らはそれらの前でただ立ち尽くしてしまいます。
この偶然というものは非常にグロテスクで時に目を背けたくなります。時にそれは吐き気を催し、人を神経衰弱に落としいれます。
僕らは自分の意志で操ることができない対象にある種の恐怖心を抱きます。
僕が産まれてきたのも偶然。
あなたと僕との出会いも偶然。
全てのことは偶然であると考えると虚無感に襲われてしまいます。
したがって我々は何かしらの意味をそこに無理やり見出すのですが、それは何の解決策にもなり得ません。僕とあなたの出会いは何の必然性もないからです。
(因果による必然性を追い求める考え方の産物として今の科学技術があるわけですが。)
たまたまこのタイミングでそこにいた。
ただそれだけです。
では、この偶然性への恐怖から私達はどう救われるのでしょうか。
その一つの答えは
『芸術』にあります。
『芸術』に我々はなぜ心惹かれて癒されるのでしょうか。
それは偶然性に満ちたこの世界に一つの『必然性』を与えてくれるからです。
外へ出ると、
たまたま近くにいたトラックのたまたま鳴らされたクラクションの音。
たまたま近くにいたカップルのたまたまなされた痴話喧嘩の声。
たまたま風が吹いてたまたまそこに立っていた木々の葉が揺れる音。
これら偶然性の音に僕らは気づかぬうちに疲弊してしまいます。(少なくとも僕は)
それらから救ってくれるのが芸術であるのです。
ラフマニノフの協奏曲第2番第3楽章は僕が最も好きな協奏曲の一つなんですが、
それを幾度も繰り返し聞くうちに、そこのメロディにある種の必然性を感じます。音楽というのは僕の分析だと譜面に沿って始まり決まったメロディを奏で終わっていく。そこに偶然性はありません。あるのは全てあらかじめ学部の上で書かれた必然のみであります。
僕の意志でそれを流し、聞き馴染みのあるメロディに目を瞑って意識を委ねている時間は少なくとも自己に無条件に襲いかかる「偶然性」の恐怖から救われる時間なのです。
この「芸術」意外にも実は最も根本的に世界の『偶然性』に立ち向かう方法があるのですが、それはまた今度お話しします。
とりあえずは、今、偶然性に溢れた「X」を閉じて、時には映画や音楽、絵画などの美しい必然性の流れに身を投じて見てください。
柚香の写メ日記
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セルゲイ・ラフマニノフ 協奏曲第2番 第3楽章柚香