僕はよく、〜さんって理性的な人だよね、とか
〜くんは意外と感性的な人だよねなどと言った二項対立でその人の性格を二つに分類分けをするような議論を耳にします。
なるほど確かに、僕たちが他者とコミュニケーションを取る過程において、そのなんらかの外的他者が自分の内面に現れた時、そのような仕方で相手を理解しようとすることはあります。
例えば、今日の夕飯を決める際、自分の今の気分からより良い最適解を導き出す人と、より先の未来を見据えて、栄養バランスやら価格やら品質を加味し、判断を下す人といるでしょう。ほとんどの人は恐らく、前者を感性的な人間で、後者を理性的な人間だと判断するでしょう。
しかし、僕は「君は感情で動くタイプ?理性で動くタイプ」といった質問を投げかけられた際いつも決まって、以下のように答えます。
「えー、時と場合によるよね。」
例えを重ねます。
僕がスーパーマーケットで夕食の食材をカゴに入れる際、基本的に直感でとりあえず気になったものを手に取ります。この際に、一つ一つの成分やらカロリーを気にしたりはしません。ただ、その時、食べたいものをカゴに入れます。
これだけ見ると僕は非常に感性的な人間だと判断されるでしょう。
他方で、何かトラブルに直面した際、僕は感情を一才放棄し、出来るだけ論理的に物事を判断し、解決に結びつけようとするでしょう。
なぜなら、過去の経験上それがいちばん良い方法だと判断したためです。
以上の例からもわかるように、ただ一概にこの人は理性的な人だよね〜とか、感性的な人だね〜などと言った議論はすぐに破綻してしまうのです。
ただ、このように二項対立で語られる物事のほとんどはそれが二項対立で成立しているように見えているだけで、実はその構造自体がなんらかの恣意によって形成されたものであり、なんの本質にもなり得ません。
政治においてもそうで、度々「右⇔左」「保守⇔革新」「リベラル⇔パターナル」と言うように便利な言葉で語られますが、どこからが右でどこからが左なんでしょうか?
ジェンダーにおいても、男の反対は女と長い間思われてきましたが、そもそも男の定義や女の定義が曖昧な為に、その二つの二項対立も完全に成立するかというとそうではないでしょう。
(社会的性や生物学的性と言うように)
また高次な次元では、善と悪もそうです。
戦争は仕掛けたほうが悪なのか。
負けたほうが悪なのか。
そもそもそこに本質はないのか。
したがって、前回の日記にも少し帰結させますが、ただ一概に自分の精神の中から世界を想像し、それを断定的に善やら悪やら判断するのは非常に危険であるのです。
現代の財やサービスの価値はそのものの金額によって可視化できるようになっていますが、それもなんの本質にもなり得ません。なぜなら、物の価値というのはその消費者とものとの対話によって決定づけられるからです。
例えば、今私たちが百円で買った500mlのペットボトル。およそ僕たちはそれを適正価格だと思うでしょう。しかし、もし仮に僕たちが砂漠で1日彷徨ったとします。そこにラクダ使いが通りがかり500mlの水を五千円で売りつけてくるとします。ただ、僕たちは水を喉が手が出るほど欲していたためにそれを購入します。
経済活動においては、消費者と提供者の価値の一致、等価交換が原則なため、僕たちはそのペットボトルを5000円と交換しても構わないと思ったからそれを購入したのです。
しかし、その水は本質的にはなんら百円のペットボトルの水と変わりません。
上述のように、物の価値というのも、流動性をもち、本質をそこに見出すことはできません。
しかし、僕らは外的世界に直接触れることはできない故にどうしても自分の言語や記号を使っていわば暴力的に到達不可能な他なるものを理解するしかないのです。
しかるに、これを乗り越える方法は一つだけ。
他者との寛容的なコミュニケーションにおいて、自分の精神にある観念を少しずつ「訂正」していくこと。
これが僕たち人間がポリス(社会)的動物として生活していく唯一の方法だと思います。
僕が思うに、世の中、以上の仕方で断言し得ることは全ての内角の総和が180度になる図形は三角形である。くらいでしょうか。(笑)
柚香の写メ日記
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本質と表象柚香