映画「哀れなるものたち」のレビューです。
ストーリーのネタバレはないけど、事前情報を何も知りたくない人は気を付けて下さい。
若き妊婦ベラは自ら命を絶つが、マッドサイエンティストによって自らの胎児の脳を移植されて奇跡的に蘇生する。かくして「身体は大人、頭脳は子供」という逆コナン君状態の女性が、新生児の無垢な目線で世界と向き合い一人の女性として成長していく。
女性としての成長や自立を「性」という部分にフォーカスして描いているのは若干の皮肉と痛烈なメッセージ性を感じる。
大人は「性」に関する事をタブー視するが、子供の頭脳を持つ主人公の「偏見のない好奇心」にそれはどう映るのか…。
それなりに長い映画なので自信はないが、おそらく作中にて「哀れ」という言葉が使われたのは「セックスはこんなにも気持ち良いのに何故みんな毎日のようにしないのか?」という疑問へのアンサーだったと記憶している。
でも女性を物として扱う歪んだ男は性的欲求が満たされていても哀れに見えたし、性的な行為に喜びを見出すのは卒業したという女性は作中で最も幸せそうであった。
はたして「哀れなるものたち」とは誰の事なのだろうか…?
ベラは女性が「性」に対して奔放である事を卑しいとする「社会の良識」という偏見に晒される。
また女性を自分の所有物として扱う男の身勝手さにも直面する。
それらに対して生前のベラは泣き寝入りするしかなかったが、子供ならではの純粋な視線で世界を見てきた現在のベラはどう対応するのか…。
さて、ここ数年で女性用風俗の認知度はかなり高くなった。
だが男が風俗を利用する事に比べて、女性が風俗を利用する事はまだまだハードルが高い。
それは女性に対して清廉さを求める男性本位な「社会の良識」という偏見が根強いからだ。
ではなぜ「女性は清廉であるべき」という認識が生まれてしまったのか。
そして「清廉」である事と「性」を求める事は本当に相反するものなのか。
この映画を観る事で「性」と向き合うことの意味を改めて考えさせられたような気がする。
女風を使う女性は哀れなのか?
女風で働く男性が哀れなのか?
風俗で働く女性は?
風俗を使う男性は?
逆に性風俗サービスを利用しない人は哀れではないのか?
プライベートで性に満足している人は?
ではプライベートの性に不満足な人は?
それを我慢して風俗を利用しない人はどうか?
自分の欲求と向き合い、前向きな気持ちで風俗を利用する人は「哀れ」なのか?
人はみな哀れみを孕んでいるのかもしれない。
その悲哀を愛しむ事こそ人の営みなのだろう。
であるとするならば、「哀れ」である事は必ずしもネガティブではないはずだ。
作中のキャラ達の多くは「哀れ」であったが、だからこそ足掻き苦しみ、その様はとても魅力的である。
一方で「哀れ」であることと向き合おうとしなかったキャラは歪んでおり、酷く「惨め」であった。
風俗利用は傷を舐め合う道化芝居かもしれないが、それは「哀れ」であったとしてもきっと「惨め」ではない。
性に関する悩みを抱いている方。
性に奔放である事に抵抗がある方。
風俗の利用に迷っている方。
風俗で働く自分に疑問を持っている方。
映画「哀れなるものたち」の驚きと感動が、あなたを突き動かす何かをもたらしてくれるかもしれません。
その衝動の赴くままに…、哀れなる僕の事を指名してみてはいかがでしょうか?
あきらの写メ日記
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傷を舐め合う道化芝居あきら