ジョン・ブラッドショウは著書の中で、「恥はすべての依存症の核であり、その感情を煽り立てるものだ」と言っている。
そしてその毒性のある恥辱感は、クライエントを長く、あるいは永久にそのどうしようもない惨めな人生に留めおく核と原動力になる。
嶺輝子著、松本俊彦編『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』より
恥とは、関係を持てないこと、関係を失うことを恐れる気持ちです。
私も、誰かに自分が関係を持つに値しない人間だと思われていると想像すると、自分の中に恥の感情が起こってきます。
つまり普遍的で誰もが持っているものです。
僕がこの仕事だけじゃなく、大げさに言えば生きていく中で一番厄介だなぁと思っているのが、この「恥」という感情。
上に書いた言葉の通り、恥という感情は基本的に人を孤立させる。
恥の感情を抱いた人、恥の感情を想起させるものから人を遠ざける。
もちろん、それは社会のなかで生きていく上で自然に生まれてくる感情なんだけど、それでも、僕の仕事の中ではマイナスに働くことの方がずっと多い。
そして、ありふれた感情であるだけに、対処も厄介だ。
基本的には、相手の感情というのはコントロールできないし、恥ずかしいと思っていることそのものを止めることはできない。
でも、恥ずかしいという感情をとりあえず棚上げしてもらわないと、僕の仕事にならない。
ひとつキーになっているのが、恥という感情は「自分の中に受け入れがたい何かがあって」「それを他人に見せるのが怖い」時に生まれる。
それを相手に見せたとき、関係を築くこと・続けることができなくなる未来が見えると、恥ずかしさが浮かび上がってくる。
だから、僕自身のことでいえば、心がけていることは2つある。
1つは、
1. 価値判断しない。相手のことをよく理解する・しようとするが、そのことで相手のことを値づけしない。
一言で言えば「受容」。カウンセリングの教科書では必ず出てくる言葉で、例え価値を判断しなければならない場面であっても、その前にまず価値判断せずあるがままを正しく認識する=受容するフェーズが必ず要る。
もう1つは、多分もっと難しい。
2. 自分自身が恥を持たない。
相手に恥の感情を抱かせないためには、自分も恥の感情を捨てないといけない。
つまり、自分の弱いところ、ダメなところ、しょうもないところを、キチンとお客様に見せられるようにならないといけない。
これはなかなか怖いことで、この怖いという感情そのものが「恥」だ。
でも自分自身の受容ができていないと、お客様の方にも、恥の感情を伝えてしまう。
多分、恐れを知らない若い人の方が、恥の感情を捨てやすい。
でも、それなりに経験を積んで、自分というものがよく見えてきたからこそ、見て見ぬ振りじゃない恥の捨て方ができるんじゃないかな、とそんなことも考えたりする。
そういえば、10月7日にはレインボーフェスタがあった(僕は残念ながら体調不良のため行けず…)。
このフェス自体は「恥」を捨てる試みだと思う。
人と人とをつながりをためらわせる恐れや、ためらいを和らげる試み。
そうやって観れば、このフェスの意味も、少し違って見えてくるかも?