「営業」という言葉を聞くと、
僕はいつも一歩、身構えてしまう。
どこかに「売る・買う」の構造が透けて見えて、
人間同士の関わりが「利害」へと
矮小化される気がする。
接客業の連絡、DM、SNSの発信。
それが「営業」と呼ばれるたび、
自分の行為もそう見られているような、
少しの居心地の悪さを覚える。
けれど。
誰かに知ってもらうために、何かしら動くこと。
これだって営業活動と言えるのかもしれない。
そもそも、動かなければ、存在は知られず、
誰かと繋がるきっかけすら生まれない。
「どこまでが営業で、
どこからが“営業じゃない”のか?」
その境界線は、受け手の感じ方次第なのだろう。
同じ言葉も、ある人には「売り込み」に見え、
別の人には「手紙」のように届く。
僕が思うことは──
営業を“超えた”もの。
それは、そこに「真実性」があるかどうか。
そして、発信する人の
「素直な感受性」が宿っているかどうか。
数字や効率のためだけではなく、
ただ「届けたい」と思ったものを、
怖さを抱えながらも差し出す行為。
それはきっと、もう「営業」ではない。
少なくとも僕は、そういう発信を続けていきたい。
営業と呼ばれることに、
少しの戸惑いを覚えつつも、
誰かと繋がるために言葉を紡ぐ。
そこに少しでも、僕自身の「生」が滲んでいるなら。
それはもう、
“利害”を超えた何かになると信じている。
秋山 純士の写メ日記
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『営業の半歩先』秋山 純士