暑さにうなされて朝目覚めると、
子どもの頃に読んだ寓話を、
ふと思い出した。
「アリとキリギリス」
夏の間、アリは黙々と食糧を集め、
キリギリスはヴァイオリンを弾いて過ごす。
やがて冬が訪れ、アリは蓄えで無事に越冬。
一方キリギリスは飢え、寒さに震える──
勤勉なアリは称賛され、
享楽的なキリギリスは戒めの象徴とされた。
だが、上京してから、
現実世界でアリもキリギリスも
目にすることがなくなった今、
この話の解釈はそれでいいのか、
という疑問が湧いてくる。
この現代、アリのように未来のためだけに働いて、
確実に冬を越せる保証なんて、
誰がしてくれるのだろう。
そして、灼熱の夏にヴァイオリンを奏でるキリギリス。
「何も考えていない馬鹿者」と評されるけれど、
あの根性は、実はとんでもなく強いのではないか。
むしろ僕は、少し憧れすら感じる。
もしかしたらキリギリスはプロのヴァイオリニストを
目指していたのかもしれない。
僕たちはいつの間にか、
“アリであるべき”という価値観を刷り込まれた。
将来のために、貯蓄・努力・忍耐。
けれど、その「正しさ」に違和感を覚え始めている人も
少なくないはずだ。
キリギリスは、非難されるべきなのか?
キリギリスの生き方は、本当に間違いなのか?
“どちらでもない”生き方とは。
続きは夜に。
秋山 純士の写メ日記
-
『消えゆくアリとキリギリス 昼の部』秋山 純士