小さい頃、
自転車に乗る練習をした記憶がある。
最初は補助輪をつけていた。
転ばずに前に進めた。
補助輪があれば安心だった。心強かった。
けれど、どこかで
「補助輪を外す」という通過儀礼が訪れる。
誰かに後ろを支えてもらいながら、
よろけて、転んで、膝を擦りむいて、
目に涙を浮かべながらも、
自分でバランスを取る感覚を掴んでいった。
あれから、ずいぶん時が経った。
大人になって、
何でも自分の意思で選べるようになったはずなのに──
それでもなお、
補助輪を外せずにいる自分がいないだろうか。
「本音を言えない人間関係」
「自分を偽って維持する恋愛」
「やりたくもない仕事を続ける日々」
転ばないように。
失わないように。
嫌われないように。
怖いから、補助輪をつけたまま走っている。
でも、
転ばないことばかりに執着していると、
気づけば、自分でちゃんと走れなくなる。
進んではいる。けれど、
風を切って、自由に走れているだろうか?
もしそうじゃないなら、
その補助輪はもう、“足かせ”なのかもしれない。
本当は、わかっているはずだ。
補助輪を外すタイミングなんて、
とっくに来ているってことを。
倒れたって、膝をすりむくくらい。
目に涙を浮かべるくらい、
なんてことはない。
傷はいつか、必ず癒える。
怖さを乗り越えたその先にある、
“自分だけの景色”を、見に行こう。
そして、
補助輪を外すその瞬間、
そっと後ろから支える手が必要なら。
それは、僕でもいいと思う。
やがて手を放しても、
もう僕の手が要らなくなる瞬間が来る。
それは、きっと少し寂しくて──
でも、本当は嬉しいことなのかもしれない。
秋山 純士の写メ日記
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「補助輪は、もういらない」秋山 純士