見えすぎるようになるのも、問題なのかもしれない。
そんなことを、最近よく思います。人間関係の話です。
感情の動きに敏感な人っていますよね。
言葉にしなくても、目線の動きや呼吸の変化など、人より多くの情報を感じ取ることができるから、先回りして手が打てたりする。
そういう人って、よく「気が利くね」って言われたり、世渡り上手に見えたりすることが多いかもしれません。
でも、意外とそうでもないんですよね。
・言葉の裏にある本音やヘイトを感じ取りすぎてしまって、人間不信になって疲れてしまう
・自然と相手の求めている行動が取れてしまう分、気が休まらず、常に“接客モード”になってしまう
・同じことをしても人より消耗するから、ひとりの時間にやるべきことが手につかなくなってしまい、そんな自分にも嫌気がさしてしまう
辛いですよね。
たとえるなら、視力が良すぎて、他人には見えない埃にばかり目がいってしまうような感覚に近いのかもしれません。
「気にしすぎだよ」「楽しいことだけ考えようよ」なんて言葉では解決できないことなんです。
だって、視力が良い人に「目を悪くしなよ」って言われても無理なように、それはもう“そういう感覚で生きている”から。
「もっと鈍感だったらよかったのに」って思っても、その原因に目を向けると、多くの場合、そうなるしかなかった理由がある気がします。
子ども時代から顔色をうかがわざるを得なかった経験があったり、誰かの機嫌を読むことで自分の安全を守ってきた人だったり。
“察しすぎる人”は、きっと相手を不快にさせたくないって気持ちが誰よりも強い。
だからこそ、頑張りすぎてしまうんですよね。
僕はというと、そんなに察しがいいタイプではありません。
無意識に気が利くような性格でもないです。
だけど、だからこそ気づけること、できることがあると思っています。
ずっと人のために頑張ってきた人が、ほんの少しでも“自分ファースト”でいられる時間。
その人自身が、自分の気づかないうちに越えてきた過去や、当たり前になってしまっている日々の努力に気づける時間。
そんな時間を、一緒に過ごしていけたらと思っています。
接客モードが当たり前になっている人に、「そのままで大丈夫だよ」と感じてもらうには、きっと少し時間がかかる。
でも、ありのままでいても安心できるような空気を、少しずつつくっていけたらいいなと思っています。
ふっと肩の力が抜けるような瞬間が、いつか訪れることを願っています。
Noah 賢人
賢人の写メ日記
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気づきすぎる目は、才能か呪いか賢人