“期待に応えること”って、セラピストをしている以上、ある意味で前提みたいなものなんだと思う。
どんな時間を過ごしたいか、どんな言葉がほしいか、どんな空気に癒されたいか。
目の前にいるその人の望みに寄り添って形にしていくこと。
それは間違いなくセラピストとして大切な一部。
だけど、気づいたら「応える」じゃなくて「合わせる」になってしまっている瞬間があった。
本当は違和感を覚えたことにも笑顔で返してしまったり、自分の中で大事にしてきた“芯”を少しずつ曲げてしまったり、無理をしてまで期待に応えようとしすぎて、終わったあとにひとりでぐったりしてる夜が増えていった。
それでも、「それで喜んでもらえるなら」と思ってた。
だけどある日ふとこんな問いが浮かんだ。
“自分をすり減らしてまで応えたその期待は本当にその人のためになっていたのかな”って。
相手が望むままを全部受け入れることが、必ずしもその人のためになるとは限らない。
こちらが無理をしていればその空気はどこかで伝わってしまう。
どんなに笑っていても心がこもっていない“サービス”はやっぱり心に届かない。
そしてそれはお客様にとっても、本当の意味で満たされる時間にはならないはずなんだ。
誰かの期待に応えるということは、ただイエスを重ねることじゃない。 ときに「NO」を含んだ上でそれでも共に居心地のいい場所をつくることが、大人同士の信頼なのかもしれない。
それにこちらが無理をせず自分を大切にしながら目の前の人と向き合えたとき。
その時間って不思議と自然体でいられて相手も心からくつろいでくれている気がする。
期待に応えることは大切。
でも、“過剰に”応えることは、時にお互いの関係性を歪めてしまう。
少しずつ、心の奥にあった「いい人でいなきゃ」という鎧を脱いで、“ちゃんとした昴”じゃないときも、誰かに愛される感覚を信じてみたい。
今日もまた、「寄り添う」と「媚びる」の境界線を、自分の中で確かめながら生きてる。
昴の写メ日記
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「応える」じゃなくて「合わせる」になってしまっている昴