肌をさらけ出すとき、触れられて反応してしまうとき、誰かの前で快感に声を漏らしてしまうとき。
「恥ずかしい」と思う瞬間は、いつも少し、“いやらしさ”と隣り合わせにある。
でもその境目って、どこなんだろう。
自分で意識してるうちは、たぶん“恥ずかしい”に近くて。
ふと気づいたら、感じてしまっていた。
そんな瞬間に、初めて“いやらしさ”が滲む気がする。
顔を背けたのに、身体は前に出てしまっていたり。
声を抑えようとしたのに、呼吸が追いつかなくなっていたり。
そういう“意識と無意識のズレ”に、色気が生まれる。
俺はそういう瞬間が、とても好きだ。
「恥ずかしい」と感じてる表情の奥に、どこか“許したい”という気配が見え隠れするとき、その人の中にある本当の官能が、少しだけ顔を出す。
触れてはいけないと思いながら、触れられることを待っているような、その微妙な距離感にこそ艶がある。
恥じらいは、快感の入口になることがある。
だから俺は、恥ずかしさを否定しない。
受け止めて、見守って、その人自身が“もういいかも”と思えるまでただそばにいる。
いやらしいと思うことも恥ずかしいと思うことも、その両方があるからこそ心も身体もちゃんと反応できるんだと思う。