"聖なる夜に「聖なる遊び」をしようじゃないか"
技術は、セックスを豊かにするためにあるのであって、セックスの本質を変えることはないだろう。セルフプレジャーとセックスを隔てるものはなにか。放埓に性行為を享受するようになった現在、生殖を目的とした行為であるか否かが重要ではないとすれば、なにか。
それはおそらく「政治」だろう。
相手との駆け引きから生まれる緊張、そして弛緩。自分をどこまで晒せるか、相手をどこまで引き受けられるか。自分の要求を通すために、相手に何を伝えるか。相手の要求を叶えるために、自分は何を与えられるか。そういった生のコミュニケーションを「エロティシズム」と呼んでみる。19世紀の思想家ジョルジュ・バタイユによれば、「エロティシズム」は「死に至るまで生を称えること」である。
難しく捉える必要はなく、だだ欲望に忠実に、ただ自分という存在である人間にある際限なき自由、それをしゃぶりつくすことが「エロティシズム」であり「放蕩」であり「快楽」だ。バタイユは、時間のイメージを引用する。労働に縛られた「俗」の時間と、際限なき自由を享受する「聖」なる時間の内、「エロティシズム」は「聖」なる時間に属する。誕生から死に至る時間の中で、合理性や有用性を意識しながら社会のために働くのが「俗」の時間、子供が家に帰らなきゃいけないのも忘れて鬼ごっこに没頭するような、無制限の遊びが「聖」なる時間だ。
明日のために遊ぶ人なんていない。ただその瞬間のためだけに遊ぶ。その間、日常の論理は機能しない。例えば鬼ごっこをしているとき「鬼に捕まるとアウト」というルール以外に守るべきものは何もない。年齢も性別も日頃の仲の良さも関係なく、ゲームが展開されるはずだ。ちょっと足をくじいたら「ごめん、たんま」とか言って、一時中止を申し入れることも出来る。際限なき自由の中では、生のコミュニケーションを通じて、今という時に集中することが出来るのだ。
既成の論理を超えた「今」という瞬間には言葉も身体の線も溶け出してしまう。自我が崩れ落ちていく柔和な甘美さが「エロティシズム」のもう一つの特徴だ。
現在の女風業界においては、物語とイメージが肝を握っている。アダルトビデオのシチュエーションものや少女マンガのキャラに萌える人はその例だ。バタイユが言及していたSMが分かりやすい。これは2人または複数人で作る演劇みたいなものだ。肉体的な刺激だけがその特徴のように語られるが多いが、ある設定にしたがって互いが役割を演じ、ボンテージや縄といった特定のイメージを引用しながら、日常的な人格また空間から解放されることを楽しむ。
現代の男女関係は未だエロティシズムを進化させてはいない。いま登場したセックスはいずれも自己満足(オナニー)の域を脱しない進化であって、エロティシズムの進化ではない。せっかくなら技術を使ってこれまでにないセクシュアルな体験を作り出したいものです。
"聖なる夜に「聖なる遊び」をしようじゃないか"
毎日飲んで
毎日セックスするべきだ
偉そうにすんません
酔ってないよ
玲一の写メ日記
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ホーリーナイト玲一