村田沙耶香著『コンビニ人間』
2016年に第155回芥川賞を受賞した作品なので、作品名を耳にした事のある人も多いかもしれないです。概要はこちらから↓↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8B%E4%BA%BA%E9%96%93
いわゆる「一般的な振舞いや世間体を保つ」みたいなコードにベタに乗ることが出来ない主人公の古倉さんがコンビニに勤めることでそれらを学習してカメレオンの様に生きていく様を描いているんだけど、この小説を短文で紹介するのはとても難しいと思いました。どうしても野暮ったくなってしまうので、気になる方は是非とも御一読を。本当に面白くて素晴らしい小説です。
さて、感想ですが、この小説は見方によってはユートピア小説にもディストピア小説にもなりそうだなと思いました。と言うのも、この物語の中では世間の横並び意識や異質な存在を排除する空気、マジョリティでいる事の優越感や安心感を過剰なまでに描いています。
その空気やコードに何の疑問もなく乗れる人にとっては、あの世界観はユートピアなんだろうなぁと思うし、嫌々ながら乗ってる人や、そもそも乗れない人にとってはディストピアになるでしょう。
これは現実世界でも同じで、ワイドショーを観て隣国やゴシップを叩きながら悦に入ってる人や、独善的な正義感に基づいて他者を裁きたがる人が大勢いるのを目の当たりにすると、「あぁ、やっぱりこの世界は俺にとってはディストピアなんだなぁ」と思うのです。
ですが、この小説を読み終えると、今まで朧げながら考えていたこの世界を生きる為の思想が言葉として表現できるようになった気がしました。
以下は俺なりに考えたこの世界でのサバイブ方法です。これは単純に俺の思想の垂れ流しなので悪しからず。
先ず、この世界はマクロな視点で見るとディストピアです。あたかも漠々とした黒い霧が立ち込めているようです。その霧に飲まれてしまうと、何もかもが下らなく見えてしまい、ディストピア的なコードに乗れない俺は只のニヒリストになって死んでしまいそうです。
しかし、そんな世界でもミクロな視点で探索すると、ユートピアであるかのような窪みや穴が点在している気がします。しかし、その窪みや穴を安住の地と決めて安穏と暮らす事は出来ません。それらは時間と共に移動してしまうからです。まるで映画の『CUBE』のように。小さなユートピアで羽を休める時間は少ないんですね。
あら、それでは困るじゃないのと思いますが、ディストピアに居る時には「敢えて」世間的なコードに乗らず、それを俯瞰的に眺めて「ハハハ」と嗤うのです。自分に俯瞰的な視点からユートピアを投影するのです。その逆しまでデカダンスな態度が肝要と思います。
これには難点もあります。そう言った態度をとるとマジョリティからは外れた存在になるので、批判や嘲笑の矢面に立たされる場面があります。しかしですね、日々ユートピア的な窪みや穴を見つけ、ディストピアに居る時は逆しまでデカダンスな態度を取れる思想的強度があればそんなマジョリティからのピーヒャラピーヒャラ然とした主張など取るに足りません。人口楽園の擁壁はとても強いのです。
つまりですね、ディストピアだからこそ、敢えてそのコードに乗らずにミクロなユートピアを生成して嗤うのです。マジョリティから見たらそれは不協和音が鳴り響くディストピアかもしれませんが、そんな事はどうでもいいのです。繰り返しますが、逆しまでデカダンスな態度こそ肝要なのです。
まぁあれです。そんな感じで生きていきたいなというステェトメントでした。
ちなみに、文脈をぶった切りますが、俺が読んだ『コンビニ人間』の文庫は道端で拾ったんですよね。こんな素晴らしい作品に出会わせてくれたのはきっと神の思し召しなのかなと思いつつ、自分なりのユートピアをモリモリと作ろうと思います。
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