こんばんは。
今日も1日お疲れ様でした。
今夜の日記は、間が空きましたが久しぶりに私の履歴書。
私の履歴書
⑮小学生時代を振り返って
幼稚園を卒園して、ランドセルの方がだいぶ大きく感じた新1年生から、実に様々な経験をした6年間だったなあ~と、つくづく思います。
私のクラスメートは、男子が8人と女子が3人の計11人という小さな小学校で、そしてなんといっても自然が豊かなまさに風光明媚といった環境でした。
冬になると雪が積もり、しかも豪雪地帯でもあったので、雪掻きもしたし小学1年生からスキーは必修科目で、学校行事で全員参加のスキー大会もありました。
春から秋にかけては、少年野球チームに所属して、冬はスキー、秋にはマラソン大会でのどかな田園風景の中を走らされて、短期間よりも長距離が得意だったみたいで、マラソン大会はだいたい1位。徒競走はだいたい2位。
けっして家が裕福では無かったので、4年生からは自分で欲しいものは自分で買うんだと新聞配達を初めて、ある時には配達先の犬に追いかけられダッシュで逃げたり。
夏には家の近くの川で、川魚を取ったり、友人達と川遊びもしたし、父親に連れられて山に山菜などの収穫に行ったり。
しかし、父親にはよく連れ回されていたなあ~山に、川に、自家菜園の畑仕事や、知り合いの田んぼで稲作の手伝いに駆り出されたり。哀田少年はおとなしく、いつも父親に従っていました。
あの頃の私は、ほんとおとなしくて、授業中なども積極的に手を挙げる訳でもなく、指されたら答えるみたいな控えめな性格だったと思います。そしてあまり手のかからない子供だったとか。
小学生時代の6年間というのは、ほんと色々とあり過ぎて書ききれないぐらい。やはり特に家庭での出来事でしょうか。子供の頃の記憶ってほんと今でも残っているもので。
そんな激動の小学生時代も、終わりを迎えます。小学校の卒業式には、母親が出席し、父兄席に向かっての卒業の言葉、そんなのがあったと思いますが、周りから聞いた話しでは、うちの母は泣いていたらしい。私は見てませんでしたが。
そんな私は、破天荒であった父親の背中と、何も言わずにしても母親として私を温かく育ててくれた母の背中を見て育ちました。
両親には、ただただ感謝の気持ちです。
つづく
哀田 剛の写メ日記
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