こんばんは。
今夜の日記も、私の履歴書。小学生の頃のことを。
私の履歴書
⑩野球少年
私のいた小学校では、一学年に男子が約10人もいないような田舎でした。小4になると、だいたい男子は野球チームに入るのが当たり前でした。強制ではないですが、ほとんどの男子が少年野球チームへ。
4年生は、ユニフォームもなくて、球拾いや、まだ野球へ慣れる段階ですね。まだろくにボールを投げる事や、バットを振る事も初心者で上手く出来なかったと思います。
5年生になってからは、少しはボールも投げれるようになって、バットを振ればボールも当たるようになり、たまには試合にも出れるようになり。守備はセカンドでした。
6年生になると、もう最上級生ですからチームの中心となり、もうレギュラーメンバーです。キャッチャーで打順は1番。足はまあまあ早い方だったので、打順は1番だけど、キャッチャーにしてはそんなに肩は強い方ではなくて、セカンドまでノーバウンドでボールが投げられず、よく盗塁されてました。
野球を教えてくれたのは、小野寺さんといって小学校のOBで高校まで野球をしていた方で、野球は上手で、当たり前ですが、野球というものを教えていただいた私にとっては、忘れられないお世話になった方です。
小野寺さんには、よく叱られたなあ。打撃も守備も、全て野球の基礎を自ら見本を見せて教えてくれました、厳しくもあり時には厳しいだけではなく、時にはユーモアも交えて。
小野寺さんは、当時JRの職員で勤務のあとや、自分の休日を自分達の野球の指導のために、来てくれた。それは忘れません。勿論無償であり、ボランティアですよね。野球が好きなのと、地元の少年野球チームが強くなるだけでなく、少年達の育成のためを思ってのことだったと思います。
私は、少年時代のその大切な時期に、野球をした事が間違いなく人間形成となったと思います。ボールを投げれないところから、バットにボールが当たらないところから、野球とは?全ての野球の基礎と、野球を通しての人間育成に尽力された小野寺さんには、ほんと感謝しております。
小野寺さん、あんなにお元気だったのに、、、
今年の正月に、久しぶりに田舎に帰った時に、地元に住む人から、「小野寺さんが亡くなった」との突然の知らせ。
いつか田舎に帰った時にでも、お酒を持って挨拶に上がりたいと思っていたのに。早すぎる。お礼を言いたい時にそこにはもういないとは。いまこうして日記を書きながら涙が溢れてきた。
小野寺さん、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。
つづく
哀田 剛の写メ日記
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