「素敵な物語の最後には全部
『フィクションです』って付け加えてあるんです
なのに悲しいニュースや事件には
一度もそれが付け加えてありませんでした
私はそれが許せないんです」
心療内科の先生に向かって
彼女は毎回そう弁明する
「私は思い知りました
信じた全部が逆さまだった
夢見たものは全部嘘だった
大人がみんな嘘に変えたんです
だから私はこうなったんです
狂ってるのは私じゃない
狂ってるのはこの世界です」
毅然としてそう述べる彼女に対して
呆れ顔を浮かべることもなく
今日も先生は真面目な顔で
彼女の話に頷いている
そして事務的に彼女を肯定し
手頃な薬をいくつか処方して
「また2週間後に来てね」と告げると
再び彼女をこの世界に放つ
こんな不毛なやり取りを
彼女はもう3年も続けていて
そろそろ成人になるのにもかかわらず
彼女の主張は一向に変わらない
むしろ日ごとにその過激さを
増しているようにさえ思えた
『金が全てだと笑う者は
悪人と呼ばれ淘汰される
愛が全てだと誇る者は
正義と呼ばれ賞賛される
どんなに闇深い悲劇にも
必ず光が降り注ぎ
健気に救いを待つ者は報われ
見捨てられる者など一人も居ない』
彼女の聖書の1ページ目は
きっとこんな書き出しなのだろう
幼い日に読んだ絵本たちを
彼女はこのように要約して
それが世界のルールであると
彼女はそう信じ込んでいた
もうボロボロの絵本たちを
大切に本棚に飾って
これさえあれば生きる上で
難しいことなど何もないと
彼女はそう信じて疑わなかった
私も彼女に勧められるがまま
聖書の欠片たちを読まされた
必ず感想を求めてくるので
私なりの感動を伝えると
彼女はそれをとても喜んだ
彼女は彼女が見つけた宗教に
誰かを巻き込みたかったのだろう
それはこれまで私が知る限り
最も綺麗で儚い宗教だった
「私はきっと幸せになれる
だって愛こそが全てだって
私はちゃんと信じてる」
見たいものを見て
信じたいものを信じて
それの何がいけなかったのだろう
悪人の妥当さも
正義の脆弱さも
愛情の空虚さも
理不尽な悲劇についても
大人たちは教えてくれなかったのだから
勘違いしたまま育ってしまったのは
決してあの子だけのせいじゃない
ありもしない夢物語は
とてもキラキラしていたから
それがありもしない夢物語だなんて
無邪気なあの子は気づけなかった
「ねえどうして
このアナウンサーは
平然とこんなことを話すの?
どうして一言も謝らないの?
自分だって救えなかったくせに
どうして悔しがって泣かないの?
私たちはここで生きていくしかないのに」
切断された女児の手のひらが
隅田川で発見されたという
不穏なニュースを目にしたときに
彼女はようやく取り乱した
寒い冬の日の夕方のニュース
手のひらの爪は全て剥がされて
拷問されたような傷跡が
いくつも残されていたのだと
男性のアナウンサーは伝えていた
手のひらという小さな部位にさえ
いくつもの傷をつけられて
挙げ句の果てに切り落とされた
そんな女の子がいたという現実を
彼女の想像力は必死に否定した
「そのお話は一体なんなの?
言いたいことはそれで終わりなの?
なんでフィクションだって言わないの?
素敵なお話にばっかり
それを付け加えるくせに
なんで肝心な時に言わないの?
なんの為にその言葉はあるの?
早く言って
もう耐えられない
一体何がそんなに違うの?
人がいて街があって
鳥が飛んで花が咲いて
私の信じたい場所もそうだった
映画もドラマもアニメも漫画も
全部ここと同じみたいだった
みんなだってあれが好きなんでしょう?
じゃあなんでここはこの有様なの?
ただ悲しくて真っ暗で
人がいたってみんな孤独で
どう間違えたらこうなっちゃうの?
なんでこんな世界を作ったの
今更ここが地獄だなんて
教えられたって困るの
どうして私が泣かなきゃいけないの?
あっちの世界を返してよ
こんな場所に置いて行かないで」
そう叫んで喚き散らして
彼女は部屋に閉じこもった
通院もやめて自らの潔白を
証明しようという努力もやめた
彼女はこの出来事を最後に
もう世界に歯向かわなくなった
その後はただ黙って日々を過ごして
時折本棚の絵本に向かって
ごめんなさいと呟くだけで
もう何を見ても嘆きはしなかった
窓から空を見上げる横顔は
奇跡を待つ羨望なのか
ただ死を待つ倦怠なのか
斜め後ろから見るだけの私に
その見当はつかなかった
隣で映画を見ていた時に
不意に流れた涙について
彼女はそれを「悔し涙」だと説明した
私は何も尋ねていないのに
何故だか彼女は弁明を始める
これは決して感涙ではなく
羨むことを諦めた自分を
悲しんで流した涙なのだと
そう言いながら
また更に泣いた
どうやって慰めたらいいのか
少しもわからないその涙を前に
私はただ無力さに押し潰された
最後に彼女を見かけたのは
騒がしい歓楽街だった
誰かを模したようなお化粧と
街にお似合いのドレスを着ていて
夏なのに何故か長袖だった
今思えばそれは
彼女なりにここに寄り添って
受け入れようとした結果なのだろう
あまりの変わりように驚いた私は
皮肉のつもりもないままに
つい「似合ってるね」と言ってしまって
けれども彼女は少し笑った
きっと噛み合った諦めと覚悟が
彼女の口角を押し上げたのだろう
私たちはお酒を酌み交わしながら
昔話に花を咲かせながら
近状などを話し合う内に
彼女のその覚悟は漏れ出した
「ノンフィクションで描くには
ここはグロくて醜いから
やむを得ずフィクションを作ったんだと思う」
「私たちも呼吸をする度に
心が酸化して錆びるんだよ
錆びて汚れた心のままで
私は生きていけなかったから
私があのまま生きていくには
もう呼吸をやめるしかなかった」
「私は裏切られたなんて思ってない
ここはずっとこうだったんだもの
私が勝手に見ていた夢が
余りにも綺麗過ぎたから
現実との差が広がり過ぎて
そのせいでここへ落っこちたときに
派手に怪我をしてしまっただけだと思う
その時の怪我はたぶん治ってないけど
きっとこうやって生きていれば
いつかは治っていくんだと思う
傷の上に違う傷をつけていけば
前の傷は忘れられるもの」
帰り際に私は訊いた
「こっちの世界は楽しいの?」
少し間を置いて彼女は答えた
「楽しいと思う以外許されないでしょ」
そのまま彼女は振り返って
うるさい街に溶けていった
立ち並ぶネオンの光に向かって
凛と歩くその後ろ姿は
もう私の知らない誰か
この街に沢山いる内の誰かだった
健気に待つ者を救う者はなく
その間に散々削ぎ落とされて
身がなくなったら路上の隅へ
骨になっても死は訪れず
自ら骨を砕いてようやく
救いの紛い物にありつける
愛も正義も袋詰めにして
その匂いだけ振り撒いていれば
どこからともなく人は現れ
熱狂の中で腰を振りだす
匂いの源を探る気はなく
都合良くその匂いを身に纏い
私欲を果たすため活用する
それこそ描くべき物語
聖書に記すべきこの世の理
だからあの子は淘汰された
踊り狂って夜に消えた
何が正解だったのかはわからない
ただ唯一私にわかることは
私も君を死なせたものの内の一つだということ
相馬みさきの写メ日記
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境界相馬みさき