どうも、ライト文学青年めぐるです。
好きな本を聞かれるたびにチラッと純文学も読みますよ、と話している僕ですが
最近になってようやく、
「ハマったら社不になりそう」
「純文学読むほど暇じゃない」
「金持ち息子の自虐風自慢でしょ」
などと言われ
世の中の多数派の人に純文学はウケないんだ……
という悲しい事実に気づいてしまいました。
ならば世間が純文学を好きになれよ!!と、思い
今回は
「そもそも純文学って、何」
という定義不可能なテーマを
100%僕の独断と主観で語っていきたいと思います。
以下、なんとなくnote文体になります。
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結論から言えば、純文学とは極めて正確な幻覚である。
例えば目の前に勢いよく流れ続ける滝壺の映像があったとする。
純文学作品を読み進めていくうち、この映像に何が起こるかというと
その滝壺にいきなりカメラが近づき、
重力に逆らって飛び散る細かい水飛沫の軌跡や、その冷たさ、その耳を塞ぎたくなる轟音が聞こえてくる。
かと思えば今度は滝壺の隣にある茂みの中の、枝先に乗った小鳥の目の色や、鮮やかな羽の色彩が目に飛び込む。
その鳥は川魚を咥えると、空へ飛び去っていく。
そういうことを人間だとか、人間社会に向けて行う。それが純文学である。
その光景は現実のどこかにあるかもしれないし、ないかもしれないが、それを読む人間の頭には確かな質感を持って(たとえ誰が読んでも)鮮やかに現れる。
ではよく言われるように、純文学に意味はないのか。
意味はある。
どんな風景でも、作者はその風景を選んで切り取って書いているから。
たとえ人々の淡い交わりであっても、作者はそれを主題に選んでいるから。
しかし、なくても良い。
純文学は意味に依存しない。
幻覚を見たい人間が、実用的なアイデアや仕事での成功を望まず「ただ純粋に幻覚を見たい」と願うように、純文学はただ我々の生きるこの世界から材料をかき集めて、幻覚を作る。
だが純文学には、LSDやマジックマッシュームの与えるような強制的な神経刺激はない。
それは、純文学の呼び起こす幻覚が、全て読者の内面からゆっくりと湧き上がるものだからだ。
画像編集ソフトのフィルターのつまみを右端まで一気に引っ張るみたいに、
これまで読者の培ってきた喜び、悲しみ、知識、ある風景、ある体験。
それらの、本来あるべき色を思い出させる。
歪ませることなく、純粋に。
結論を言おう。
純文学とは、極めて正確な幻覚である。
それに触れることは「体験」であり、
音楽を聴くことよりも、ライブに行くことに近く
知識を得るよりも冒険をすることに近い。
いつかのある日
それまで読書に興味がなかったあなたが
不意に純文学を手に取ることを、祈っています。
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純文学って、何瀬戸口めぐる