前回『 ②再び手術 』からの続きになりますので、良ければそちらから先にお読みください
『 可能性は低いですが、後遺症で体に麻痺が出ることもあります 』
と説明を受けていたので不安はありましたが、追い込まれると逆に踏ん切りがつくので、当日の朝はそこまで緊張しませんでした
そして正午から手術室スタート
『 これから全身麻酔を掛けますよ 』
と声を掛けられてから、すぐに意識が無くなりました
肩を叩かれて目が覚めると、寝かされた状態でエレベーターに乗るところでした
『手術途中で大きな地震があったんだよ』
と看護師さんに言われましたがその時は
『あっ、そうなんだ』
くらいの感想でした
しかし、手術後に運ばれたのは集中治療室ではなく一般的な4人部屋で、周りもなんとなくバタバタしてる感じがしました
少しだけ話せる余裕が出来たので
『なぜ普通の病室なんですか?』
と聞くと、
『津波が来るかもしれないから、患者さんはみんな3階以上の部屋に移動してるんだよ』
と教えてもらいました
病院は海から割と近い位置にあったので、そのような措置が取られたんだと思います
普段の状態なら
『えっ、津波が来るの?!』
となりますが
手術直後の自分は
『頭の傷が痛い・・・、鼻からのチューブが辛い、カテーテルの違和感がすごい、吐き気がものすごい』
と四重苦状態だったので、他に何も考えられませんでした
鼻のチューブを取ってもらい、吐き気がようやくおさまったころ、集中治療室に戻ることが出来ました
そしてその日はよく状況が分からないまま眠りにつきました
次の日になると体調は大分落ち着いてきましたが、脳の手術のせいか頭の中がハッキリしていませんでした
なので3月12日~13日の段階でも、どの程度の地震があったかは全然分かっていませんでした
3日後の14日になってようやく一般病棟に戻れることになり、病室のテレビを付けると何度も繰り返し津波の映像が流れていました
『えっ、こんなことになってるの・・・』
想像の100倍くらい被害状況が違っていたので、しばらく頭の中が混乱しました
実家は原発から20km圏内でしたが、当日両親は手術の付き添いに東京に来てくれていたので幸い怪我などもありませんでした
ただ家にあった荷物などは当然ながら東京に何も持ってきていなかったので、申し訳ない気持ちにもなりました
東京がどの程度揺れたのかは意識がなかったので分からないのですが、大きな地震直後でもそのまま手術を続行してくれた先生や看護師さんにはとても感謝しています
あれから10年経ちますが幸い体調が悪くなったことは一度もありませんし、2ヵ月に一度は病院で検査を受けているので毎日元気に過ごせています
もちろん運動やお酒も飲んで大丈夫です
10年前の2月~3月は困難続きだったので、自分の生き方や考え方も大きく変化した年でした
人生はいつ何が起こるか全く分かりませんが、身体が健康なら何でも出来ると思うので、これからもマイペースにお仕事の方を頑張って行こうと思います
次回からまたいつものゆる〜いツイートや写メ日記に戻りますので、これからもよろしくお願いします
Jewel Box 透也
月嶋 透也の写メ日記
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No.44 : あれから10年 ③手術中の地震とその後月嶋 透也