あの頃の僕は、<br />
毎日、ビルの入り口で笑顔を貼りつけていた。<br />
入館証を受け取り、歩き、巡回して、<br />
今日も何も起きないことを喜ぶような日々だった。<br />
静かで、平和で、退屈だった。
腰を痛めたのをきっかけに、<br />
少しだけ、時計の針がゆっくり回り始めた。<br />
空いた時間で、偶然のように出会った“誰か”。<br />
遠く離れた場所に住む、小さな女性。
行くはずのない距離だった。<br />
でもそのときの僕は、<br />
心の奥でなにかがうずいていた。<br />
恋愛経験の浅さと、静かな冒険心が、飛行機の座席に僕を乗せていた。<br />
海辺の町。<br />
バスとタクシーを乗り継いで辿り着いた待ち合わせ場所。<br />
風が抜ける音と、空の色。<br />
近くには、ひとつの鳥居が立っていた。
ふと見上げると、タクシーの運転手が得意げに微笑んだ。<br />
そして、ぐるっと回って──その鳥居の下をくぐった。<br />
空が、青く光った気がした。<br />
あれはただの陽射しか、それとも……。
出会いは、特別でも劇的でもなかった。<br />
可愛らしい彼女は、まるで友達と話すように、僕に接した。<br />
本屋で並んで歩き、カフェで静かに座っていた。<br />
淡い時間。<br />
恋というより、まだ“物語にもなりきらない、ページの余白”だった。
「じゃあね」と言われてホテルに戻り、<br />
痛みが戻ってきて、シャワーを浴びて、僕は眠った。
翌朝。帰り支度をしていたとき、一通のメールが届いた。<br />
「昨日はありがとう。来てくれてすごく嬉しかった。<br />
今、ホテルの前にいるの。……部屋に入れていい?」
少しして、彼女はベッドの上に座り、僕の手を取った。<br />
それだけだった。<br />
それだけで、心が溶けていくのがわかった。
帰りの飛行機の窓から、鳥居のある海岸線を思い出した。<br />
あの光は、なんだったのか。<br />
あの声は、なんだったのか。
「本当に届く願いは、信じた想いの先にあるの。」<br />
そう、風が言った気がした。
気づけば僕は、<br />
毎日を守る側にいた“あの制服”を静かに脱ぎ、<br />
地図のない人生を歩き出していた。
もう一度会いたいと思っても、<br />
あの日の場所が、どこだったかさえ思い出せない。<br />
でもいいんだ。
あの日、僕は鳥居をくぐった。<br />
それは、世界と自分を結ぶ“魂の約束”だった。<br />
自由になっていいよ──<br />
そう言って、誰かが僕を送り出してくれた気がした。
龍生の写メ日記
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海と鳥居と、風の記憶龍生