「自分を好きになる方法」「自己肯定感を高めましょう」「自己受容しましょう」等々、ここ最近はSNSやメディアではこの手の話題を目にすることがとても多いじゃないですか。
それらの主張って一見するとポジティブだし「そりゃそうだわな」と思わせる言葉が並んでますよね。ただ、よくよく考えると構造として違和感があるというか、無批判に受け入れるには少し引っ掛かりがあったのでこの文章を書いてます。
まず初めに、上に書いた「自分を好きになる」等々の主張ってのは個人が発するある種の考え方やドグマ、コマーシャルみたいなもんだと思います。つまり、「自分を好きになった方が幸せだし生きやすくなるから、そのための方法やらをお伝えします。頑張りましょう」ってことです。その主張自体は特に悪いとも思わないし、誰かを貶めようとする意図も無いでしょう。
ただ、それは「整形すれば/痩せれば/高学歴なら/金持ちなら/結婚すれば/英語が達者なら幸せになるので、それに向かって頑張りましょう」ってのと構造的に同じじゃないですか。これは、「『現状を変えて何かの状態になれば幸せになれる』、という主張を信じる」、つまり世界における幸/不幸の判断基準を外部に明け渡す構造になる訳です。
ひとつ前に戻って、自己肯定感が高まった結果として幸せになって生き易くなる人は多いと思うのでそれはそれとして全く問題ないけど、その状態ってのは自己肯定感が何かの拍子に低くなったらまた不幸せになる可能性が大いに高いじゃないですか。幸せでいる為には常に自己肯定感が高い状態をキープしないといけないですよね。
世界のどこかに幸不幸の境目みたいなのがあると仮定して、さらにそこへ何処かから借りてきた基準を当てはめ続ける生き方ってけっこう大変だと思います。
自分が嫌いだって自己肯定感が低くたって別に良いんじゃないんですかね。それも全部ひっくるめて、世界と自分の実存の関係を一度引き受けつつ、生きることについて考え抜いた方が無責任なドグマとかコマーシャルに対する免疫もつく気がします。結局のところ、人生の折り合いってのは自分の主体性でもって何とかするしかない訳だから、そこには自分で選び取ったような本質をポンと置けばよろしいのではないかしらと。
自分を好きで、それで幸せな人生を送っている人が無自覚に発言する「自分を愛した方が良い」ってのは、ラーメン好きな人が「ここのラーメン美味しいから君も食べなよ」って言うのと余り変わらない訳です。
ナチュラルボーンで自分が好きなら良いんだろうけど、誰かに言われた結果として「自分を好きにならなきゃ」となるのは逆に生きづらくなりそうだから、自分の判断基準とか考え方は外部に明け渡し過ぎない方がいいんじゃないかと最近は思ってます。
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なおきの写メ日記
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自分を好きになる必要はあるのか問題なおき