《デジタル・ビーイング不要説》(2021年06月06日)和泉 京花(Un moment pour toi Tokyo)|写メ日記

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和泉 京花@写メ日記

和泉 京花

和泉 京花  (32)

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  • 《インプレッションを乗り越えて》
    和泉 京花

    「人は見た目が9割」、という本は、ビジネス書におけるロングセラーですが、タイトルだけでも聞いた事のある方は、きっと多いことと思います。



    タイトルだけ聞くと、ルッキズムを主張した内容なのか?

    と思われがちですが、実際のところはノンバーバル(非言語)・コミュニケーションと性格・気質、そして相手に与える印象との相関性を指摘した書であり、決して美人至上主義を謳っている訳ではないことは、読んだ方には分かるでしょう。



    しかし人間という生き物が持つ誤謬として、やはり外見から判断される内面性への決め付けというものは、少なからず誰しもが持っている習性かとも思います。



    例えば、「眼鏡を掛けた細身の女性は、世間体に敏感で神経質である」、「金髪に染めた長髪の若い男性は、快活さはあるが粗野で乱暴である」、「警察官の制服を着ている男性は、警察官を生業としている者である」、などなど……。



    実際、私と会ってみてイメージと違った、という方は、これまでにも何人かはいらっしゃるかと思われます。



    書き言葉と話し言葉とは、決して一致するものではないと分かってはいても(逆に、メール文化の発達によって、書き言葉と話し言葉が極端に一致してしまうケースも増えてはいますが……)、それでもこの日記とプロフィールの写真から形成される初期イメージというものは、抗いがたい束縛を持つことでしょう。



    我々セラピストもまた人間なので、お客様との待ち合わせでのファースト・インプレッションにイメージが釣られてしまうことは否定し切れません。



    ですが、不思議なことに肌を重ねる過程を経ることで、余計な第一印象というものは砂文字のように消え去っていき、その人なりの可愛らしさ、愛らしさというものが、帰り道ではごく自然と出てきているものです。



    これはやはり、非日常的な体験を二人で共同した、という事実が、いかに心的距離を一足飛びに縮めるかの証明であるように思います。そして心的距離の接近は、安心感と幸福感を得るためには絶対条件であるでしょう。



    どうぞ日常では味わえないことを、たくさん試してみてください。

    それだけの用意が、我々セラピストには揃っています。



    勇気を持ってドキドキを楽しめれば、見せ掛けではない、本物の幸福感が、貴女を迎え入れてくれることでしょう。



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  • 《内奥より来たるストレンジャー》
    和泉 京花

    『マレビト』という専門用語が示す通り、極めてその発生が希少となる「文化の混淆・変容」というものは、いつも外来者をきっかけにもたらされるようです。
     
    元来の民俗学的定義に則れば、マレビトはウチの境界よりソトの場所からやって来る、地理的・位置的な観点による概念かと思われますが、ネット・グローバルな昨今においては、ウチもソトもいかんせん境い目が曖昧としていて、実のところ、自分以外の他者というのは、すべてソトになってしまっているのかもしれません。
     
    ついこの前、20年来の時を経て、ようやく物語が完結した「エヴァンゲリオン」ですが、あの作品に出てくる『ATフィールド』は、まさしくパーソナルスペースのウチとソトを暗喩するものだと、多くの考察にもあります。
     
    大抵の昔話にもある通り、ソトからやって来るマレビトというものは、異質で、不可解で、ウチの調和を乱すもので、それは時として畏怖と侮蔑の対象であり、また同時に畏敬と歓待の対象として、ウチ側の視点からは捉えられています。
     
    現代において、自分以外の他者がすべてマレビト化しているというのなら、今の世の中はどこを見渡しても、異界しか広がっていないのでしょうか?
     
     
    果たしてそうなのかもしれません。
     
    人は所詮、究極的には孤独であるというのは、私の価値観の大きな核のひとつです。
     
    ただ幸いなことに、もはやフォークロアの時代が遠く過ぎ去った近代の社会では、飢饉による姥捨や子どもの口減らし問題などは、同じく昔話となっています。
     
    マレビトはもはや、客人(まろうど)の神でしかありえない。
    マレビトがもたらすのは、秩序の崩壊ではなく、秩序の肯定的な変容である。
     
    そう考えると、初めて出逢う見知らぬ他者というのも、警戒すべき相手ではなく、両腕を広げて迎え入れた方が、得策なのかもしれません。
     
    隙間なく自己の殻を保ち、ウチなる自我を堅固し続けることは、それはそれでなかなかエネルギーを消耗することに思われます。
     
    むしろその殻を柔らかくして、外界からの異人に歓待で接すれば、自らのウチこそがソトよりのマレビトになり、自分だけの文化をより昇華されたものに変容できるのでは、と、徒然ながら考えていました。
     

     


  • 《稼ぐためのギフト》
    和泉 京花

    近頃、以前に読んだ人類学の名著を、改めて読み返しています。
    書名はあえて伏せますが、勘のいい方ならタイトルからもう分かっていることでしょう。
     
    この本の骨子は、一言にまとめてしまえば、「贈り物には返礼の義務が必ず付きまとう」というものです。
     
    各地域の部族社会や中世期西洋の風習を比較研究してみると、いずれのどのような集団にあっても、近代経済にあるような単純な「貨幣による売り買い」とは別種の交換関係が、世界的に見受けられるそうです。
     
    その交換関係の中では、贈り物とその所有者は同一のものと看做されることが多く、贈られた物は丁重な扱い、時には特権の象徴として取り扱われ、それを粗末にしたり捨てたりすることは禁忌であり、持つものに一種の呪術的な拘束力さえ発揮するのだと言われています。
    これが示唆するところは、こうした場で行われるのは、単なる物質同士のやり取りだけでなく、その社会における儀礼的な形而上観念が、同時にやり取りされているということを意味します。
     
    とりわけ注目すべき点は、贈られた側は、贈られた物以上の価値を持つ返礼を、なかば義務づけられているということです。
     
    これは視点を変えると、この交換関係においては、何かを誰かに贈ったならば、贈った側は贈った物以上の返礼を手にすることが、超法規的な次元で約束されている、という風になります。
     
    ……ところで、日本語には『稼ぐ』という言葉(あるいは漢字)があります。
    これを読んでいる貴女自身も、日々何がしかの方法を用いて、金銭を『稼』いでいることでしょう。
     
    辞書を引いてみると、『稼』は稲が実る様を表す形声文字であり、転じてその意味は「稲を植える」になるそうです。
     
    現実の農業に照らし合わせると、種となる稲を田や畑に植えることで、その稲はやがて数十倍もの収穫をもたらし、稲を植えた者は、結果的に投じた原資よりも多くの利得を手にする事になります。
     
    残念なことに、現代日本の企業文化ではとっくに廃れた意識である感は否めませんが、産業による経済の発展とはつまるところ、「金持ちが機械を買ったこと」から端を発します。
     
    投資する稲なくしては、大きな収穫は得られない。
    (収穫は、需要とも言い換えられるでしょう)
     
    先ずはおのずから手放すことで、それはそれ以上になって帰ってくる。
     
    奇妙なことに思われるかもしれませんが、人の営為の真髄とは、『与えよ、さらば求められん』、に尽きるのかなと、最近思います。
     

    ちなみにこの本では、それとは別に以下のことも逆説として記しています。
     
    それはすなわち、「分別なく無闇矢鱈と他人に物を贈りまくる者は、上記のような呪術性を無視・排斥した、極めて恥知らずな者である」、と。
     
    ……節度はどちらの方向でも大切のようです。
     

     


  • 《夏風アイテム》
    和泉 京花

    いよいよ真夏日を迎えるようになりましたね。



    先日、冷感マスクを購入して初めて装着してみたんですが、やっぱりただの不織布マスクに比べたら、風通しが良くて快適でした。



    今年の夏はオーバーサイズなファッションが流行りのようで、GUで見つけたシルエットのゆるいTシャツとバルーンパンツが安いわりに質が良くて、この暑さを何とか乗り切れそうです。



    そんでもって、この季節に欠かせないのがセンス。

    扇子ですね、扇子。



    二、三年前にどこかの美術館で買った、尾形光琳(かな?)の松の屏風絵をあしらった金色の扇子は、僕の夏の必携品です。

    日差しに汗だくになった後でも、電車の中でこれを三、四回ほど煽げば、空調の効いた風がスワァァーッと首筋を撫でてくれるので、たちまちシャッキリした気分になります。



    施術時にも持ち歩いてるので、シャワーの後に火照った体を冷ますのにも何気に役立ってたりしてます。



    僕の夏のお気に入りアイテムです。





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  • 《褒めることへのエンタープライズ》
    和泉 京花

    インポスター症候群をご存知でしょうか?
     
    褒められると罪悪感を覚えたり、賞賛を素直に受け取れずに、逆に自分はそれほどの価値などないのだ、と感じてしまう心的病理だそうです。
     
    私も症状と呼ぶほどには強くはないのですが、褒められたり仕事の成果を高く評価されても、いつもどこか白けのようなものを感じてしまうところが、実はあります。
     
    こうした心の働きには、いわゆる長女気質が背景にあるのかもしれません。
     
    女性の長子は、しばしば「しっかりしている」ことを親(特に母親)に強いられがちです。
     
    そうした一種の抑圧に晒され続け育つことで、完璧に出来ている=当たり前になってしまい、何事も減点方式で考えてしまうのでは、と考察します。
     
    特に恥の文化が強い日本では、他者を褒めるという場面がそもそも起こりにくく、必然的に褒められ慣れずに育った子どもがそうした局面にいざ直面した時に、どう反応すればいいのか分からなくなる、ということは、往々にしてあると思います。
     
    これは私が過去において、自分に対して施した処方でもあるのですが、このような傾向が自分の中にあると感じたら、「私ってば、なかなかやるじゃん」の精神を大事にして欲しいと思っています。
     
    「そなたこそ聞きしに勝る三国一の猛将よ!」、だと、この広い世の中、そんな大それた称揚を信じるのはとても困難なことです。
     
    けれど、「なかなかやるじゃん」、程度だったら、気軽に振り回せるくらいの重みしかないように思います。
     
    自己嫌悪や自己卑下は、長い生涯には誰にでも起こること。
     
    そうした時に、「まぁでも、私ってなかなかやってるじゃん」と唱えることで、程よく脱力ができて、次の活動に勢いを乗せることができるようになると思います。
     
    実際、貴女はなかなかやっているのです。
     
    自分への呼び掛けだけで足りない時は、僕も声を合わせて、「やるじゃん」、と言いに行きますよ。
     

     


  • 《眠りに就くネセサリィ・ジョブ》
    和泉 京花

    昨今の書店の新刊コーナーなどを眺めてみると、「脱資本主義」や「資本主義の終焉とその危機」といった旨の煽り文句が目立つようになりました。
     
    かつての高度経済成長期を象徴する大量生産・大量消費のライフスタイルは、いまや冷ややかな目を向けられる程までにその地位を落とし始め、急速に熱を失い始めています。
     
    国や政財界なども、やれ「3R」だ「SDGs」だと、対外イメージにひどく怯えた環境保護への取組み姿勢を露骨にアピールし始め、自分たちがこれからの時代にどれだけ有益であるかということを、大資本を投じて広告している有様などは、あまりにも喜劇的と言わざるを得ません。
     
    もはや人間・人類の活動というものが、いかに省エネであるか、省代謝的であるかということを必死に競い合うゲームに移行しています。
     
    近頃よく耳にするようになった、「エッセンシャル・ワーク」と「ブルシット・ジョブ」という言葉。
     
    あるいはこのふたつの言葉に、ドキリとさせられる人も、なかなか少なくはないのではないでしょうか。
     
    私のような性感セラピストなどは、皆が皆、自他ともに満場一致で、後者に当てはまると誰に問うても、そう断言することかと思います。
     
    ですが、これら二つの間にある境界線というものを、はっきりと指でなぞり示せる人間というのは、果たしてこの世の中に存在し得るのでしょうか。
     
    昼の時間の私自身も、働きのための働き、手段のための目的の創出というものが、ごまんと転がっている不条理な現実を、幾度となく横目にしながらここまで過ごしてきました。
    (その中で得た教訓は、「わざわざ熱心に売り込みを掛けなければいけないものは、本来的に不必要なものである」、ということです)
     
    要不要で考えるのなら、人間の一生そのものこそが、宇宙の中の塵と同等くらいには意味の無いものだと多くの先達が言います。
     
    その塵芥を、狂信的な声で必要と言い張るのか、無駄と知りながら捏ねて楽しむのかは、その人の人生観に委ねられてしまうところでしょうが。
     
    果たしてこの夏東京に立ち昇る蜃気楼は、翌年にも同じ姿で顕れているでしょうか。
     
    私個人は、相も変わらず、日銭を得ながら合間合間に本を読んでいるとは思っています。
     

     


  • 《ドッペルゲンガーの極意》
    和泉 京花




    何か物事に対峙するとき、私の中にはふたりの人格が宿っています。



    こう言うと、多重人格?と訝しがる方もいるかもしれませんが、これは何も特別な事ではなく、誰しもが秘めている極めて当たり前な性質です。



    ひとつは、予定調和や安定を好む、規則型のAの私。



    そしてもうひとつは、偶然や未知数を好む、気まぐれ型のBの僕。



    人はこの両極の間を、行ったり来たりしながら過ごしています。



    Aの私は計画立てを好み、それがその通り実行された時に、大きな達成感を得ます。これは、おそらく昼の時間の私。



    一方、気まぐれ型のBの僕は、こちらの夜の仕事の時によく顔を出し、状況や相手の女性に空手のまま直面し、機転やアドリブでそれを切り抜けることに快感を得る側面があります。



    これらは別に、この時の自分はこっちの自分、というものでもなく、その時そのシチュエーションによってどちらの気質が優位に出るか、という配合比に過ぎないものでもあります。



    見た目や話しぶりはおっとりと静かなので、貴女はもしかしたらAの私を見ているかもしれませんが、その実、僕は性に関してはとことん冒険家なので、施術が始まればきっと少年の眼差しで貴女の隅々を探っていることでしょう。



    この世に女体ほど神秘的なものはないのだから、仕方のないことですよね?





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  • 《デジタル・ビーイング不要説》
    和泉 京花

    私も例外では無いのですが、世間的にテレワークやテレビ会議などの非対面コミュニケーション・ツールが発達したことで、実は顔をよく知らないけどその割には付き合い長いな、という取引関係が急増しているようです。



    まぁ考えてみれば、ワールドワイドウェブ、というよりも、無線通信という技術が誕生したその時点から、すでにそうした「会ったことの無い顔知らぬ友人」という立場は、この世に登場していたわけですが……。



    それでもやはり、一部の業界や限定的な趣味人を外せば、昨今の状況が到来する以前において、電波のみを介した繋がりというのは、そこまで人口に膾炙していなかったと思います。



    そうなると、次に当然浮かんでくるのは、対面する必然性を持つ相手とは、いったい誰か?(翻って、対面しなければ意味が無い相手とは誰か?)という問題になるのですが、これはもう貴女もご承知の通り、我々のような立場の者が筆頭に来ることでしょう。



    同時的に同じ空間に居る、ということは、大概のサービスでは価値提供に際する手段(あるいは、手段のための前提条件)に過ぎません。



    『なぜ、その人と同じ時間・同じ場所にいなくては、快や利得が得られないのか?』



    貴女の推しにおけるその『Why?』を突き詰めて考えてみるのも、より一層女風を楽しむための一助となることでしょう。







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  • 《肯定のインテンション?》
    和泉 京花

    自己啓発や認知療法など、臨床心理学的なテーマを扱う書籍やコラムが流行り始めて、もう久しくなった感があるように思われます。



    少しネットニュースのビジネス記事などを漁れば、一日に一つ以上はセルフケアやセルフマネジメントについてのコラムにぶつかるのは、貴女も毎日体験していることでしょう。



    切り口や語り口はともかく、現代人はとかく自分のこと、特に社会内存在としての自分を知ることに、ひどく飢えているように見受けられます。



    社会学に近しい分野を専攻していた私は、もはやそれらを活きるための道具とすら思わずに、単なる暇潰しとして詩と同等に眺めるようになってしまいましたが、割とクリティカルなレベルでこうした実存の危機に直面している人は、私が思うよりは多いのかもしれません。



    セラピスト、と呼称されるくらいなのだから、我々は顧客である女性の心のケアまでを果たすべきなのか?

    という問題には、個人の日記などで語れる範疇にはない議論の余地があると思います。



    ただ、勝手な大前提を立てることを許されるならば、我々セラピストがお客様である貴女と一度お会いして、体を重ねて自己開示を相互に行っている時点で、我々はすでに貴女の心の領域に踏み込んでいるということは、間違いないように思えるのです。



    これは何も女風の世界に限らず、人相手に対話を通じて問題解決を行う形式を取る仕事なら、全てに共通して言えることだとも思います。



    あとはそれを承けて、顧客にどこまで伴走するのか、どこまでは相手自身の課題として線を引くのか、そのスタイルにおける差の大小に過ぎないものだと思っています。



    舐めるだけが能であれば、いずれは機械に取って代わられることでしょう。



    最適かどうかはともかくとして、ただそばに居る、というその時間だけでも、何かしらの意味を持って臨みたいと思う私でした。





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  • 《煽るシェイブド・シェイプ》
    和泉 京花

    夏の前の、梅雨の幕開け、といった空模様ですが、貴女は気が滅入ったりしていないでしょうか?
     
    気温はもちろん湿度も上がって、不快指数がうなぎ登りになっているこの頃、そろそろボディケアにも向き合わねばなるまい、とうんざりしている方も多いのではと。
     
    特にこの界隈では頻繁に話題に挙がるであろう、下の毛の処理について。
    これには私は、全女性にぜひともカミソリを当てて欲しいと思っている派閥の人間です。
     
    衛生的な観点から推奨するのももちろんですが、我々的にはご奉仕がしやすくなり、俄然、隅々まで逃さず這わせてやろうという気にもなります。
     
    そして何より、「そういうことをさせるために女性が自身で手を加えている」という、性的意識の顕在性。
    ここが何よりも私にとって、多大な興奮を誘うのです。
     
    この辺りの感覚は、セクシーランジェリーの役割などを想像してもらえれば、なんとなし合点がいくと思います。
    来たるべき行為にあたって、そのための用意を万全に備えている、という気概と意思の表れ。
     
    やはりセラピストという生き物は、「したい」の強さに「してあげたい」で同じく応じたくなる生き物のようです。