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柚香の写メ日記

  • 全ての「女性」に対する異議申し立て
    柚香
    全ての「女性」に対する異議申し立て

    「女」に異議申したい

    ※今回の日記のテーマは非常に壮大であるために、いつかまた続編が出ることを前提にお読みくださいませ。

    いや、ことの発端はうちの髭じぃ(プライバシーの都合でニックネームで呼称させて頂きます。)との会話なんです。

    「男の性欲は可視化されているのに、女性の性欲についてはそうではないよね。」

    ほんとにその通りなんですよ。

    伝統的なフェミニズムの歴史において、「女性の社会進出」や「政治へのアクセス」など様々な問題が議論されてきました。
    そして、現代の日本の政治制度は戦後だいぶ改革が行われており、一見すると男女というものは平等となってきている風に見えます。

    しかし本当にそうなんでしょうか。

    これをお読みくださってる女性の方々は、自分の性が原因で、なにか虐げられてきた経験が一つは思い浮かぶと思います。よくある例だと、女性は妊娠の可能性があるから昇進のスピードが遅いということだったり、男性から心地の悪い眼差しを向けられたり。

    しかし、それだけではないと思うんです。

    それは「性欲」に関することだとより顕著に現れてきます。


    例えば、今我々はとある相席屋のようなbarに居るとします。

    一人の男性と一対一で向かい合ってお互い探り合いながら会話をしている場面を思い浮かべてください。

    その男性は貴女の人格を賛美するような尊敬の念を込めた言葉を投げてきます。そして、その言葉の裏には、貴女とこのあとホテルに行きたいという意味が含意されています。そして時間が経つにつれて男性は貴女の手を握り締めます。そして、明らかに火照った顔つきで貴女に次に行く場所を提案してきます。彼の性欲はそこで顕著に貴女の中に現前してくるでしょう。

    この話は特に違和感なく聞こえると思います。

    なぜなら、男性は歴史的にみて女性との関係において「主体」であり続けたからです。

    では、もし立場が逆転したらどうでしょう。

    貴女は時に目の前の男性と寝たいと思う時もあるでしょう。そして、貴女は相手の手を握ってホテルに誘うとします。
    それはさっきの例で見た男性と全く同じ行為であります。

    しかし、第三者がそのシチュエーションを見た時、貴女を言葉を選ばずに言うならば「ビッチ」だったり、その他様々な批判的な意見を持つことが想定されます。(この業界では、女性の性欲というものは可視化されているが、ここでは世間一般な話をしています。)

    ギリシャ神話においても、男性が女性に向ける性欲は当たり前のように描かれますが、女性が男性に向ける性欲というものはどこか否定的なニュアンスで描かれています。

    では、どうしてそのようなことが起きるのか。

    ここからは割と難易度が高い議論になってくるのでもしわからなかったらDMしてください。

    どうしてそのようなことが起きるのか。

    それは「女」「男」という表象/代表をなんらかの権力(政治的勢力)が暴力的に規定しているのです。
    おかしいとは思いませんか?
    男と女カテゴリーのみで社会的役割が違うということが。

    これは看過できるものではありません。

    生物学的に見て、男女における1番の差異は生殖機能としての違いです。

    しかし逆にそれが一番大きな理由であり、単に生殖機能が違うということで、社会的役割が割り振られる、性欲というものの扱いも変わってくるのは少し、論理が飛躍し過ぎている気がします。

    つまり、社会や法が「女」というものを生産しているのです。(おそらくそれが便利だったため。)
    政治的、言語的な「表象」領域(女らしさみたいなもの)が、主体を形成する際の基準を前もって設定してしまい、その結果、主体として認知可能なものだけが表彰されることになってしまうのです。
    わかりやすく言うならば、「女」は「女らしさ」というものを社会から求められており、そこからはみ出したものは行為の主体として認めてもらえなくなるようなこと。

    ではどうしたらいいのでしょうか。

    それは、言語そのものを解体することです。
    業界用語で「脱構築」といいます。

    僕らが使う言語というものは、時に暴力的にカオスをコスモスにします。
    イメージとしてはヨーロッパ諸国が独断でアフリカに無理やり国境を引いたせいで民族対立が起きているような感じ。

    つまり、言語としての「女」という言葉が今の「女らしさ」のようなものを生み出してしまっているということです。これはジェンダーにもセックスにも同様なことが言えると思います。 

    言語は暴力的なんです。
    (テーブルという語があるから僕らはただの木の集合体を「テーブル」と認識できるといったこと」

    僕が最終的に目指す地点は言語そのものを解体し、再びそれに変わる何かを構築するということです。

    しかしそれが出来たら苦労しないんですけどね。。。

    なので、まとめると

    「女」という主体がどこにも前提とされてない場合のみ、「表象、代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるのです。

    僕は「女」という言葉を「前-言語的次元」に解体し、「女性」(のような存在)を言語から解放することが目標です。