「人生の目的は悟ることではありません。生きるんです。人間は動物ですから。」
「自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。」
「自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか、才能なんて思われていたものを越えた、決意の凄みを見せてやる、というつもりでやればいいんだよ。」
「この瞬間、瞬間に、若さとか、年よりとか、力があるないとか、才能とか、金とか、あらゆる条件を超えて、その持てるぎりぎりいっぱいの容量で挑み、生きるということだ。」
「相手に伝わらなくてもいいんだと思って純粋さを貫けば、逆にその純粋さは伝わるんだよ。」
「つまり、様々なマイナス面を背負っている。でもマイナス面が大きければ大きいほど、逆にそれと反対の最高に膨れ上がったものを自分に感じるわけだ。谷深ければ山は高いのです。」
「自分を賭けることで力が出てくるわけで、能力の限界を考えていたら何もできやしないよ。能力の限界を決めるのは自分自身です。」
「危険な道に賭けろ」
「消されるなら、それで結構。とことんまで闘うよ」
「よしダメになってやろう」
「危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。」
「こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。」
「自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。」
危険だと思う道は、自分の行きたい道なのだ。「ダメになってやろう」と決意して、とことん闘え
作家の岡本かの子は、岡本太郎を生んだ。
夫は生活をかえりみない男で、岡本かの子は年下の青年とつきあい、娘も生む。しかし、離婚しなかった。
夫は、「そんなに好きならうちに連れてくれば」と言った。
かくて、ひとつの家に、父親と、愛人をひきこむ母親がいた。
岡本太郎の両親は、どんな性生活を送っていたのだろうかと思う。
そんな岡本太郎は、幼少期から壮絶ないじめに遭った。
小学校は1学期で退学。
転校をかさねた。
嫌いな者には容赦しなかった。
嫌いな先生の授業では、ずっと耳をふさいでいた。
成績はクラスで最下位。
誰もが岡本太郎を見下し、バカにしていた。
転校の果てに、應義塾幼稚舎に落ち着いたが、同塾の寄宿舎で生活していた岡本太郎は、まわりとの価値観の違いから猛烈にいじめられた。
よってたかって、ほかの子どもたちに殴られた。
教師たちも、岡本太郎を陰湿な方法でいじめた。おかずを与えず、塩をかけただけの「素飯(すめし)」を食べさせた。
岡本太郎は小学校低学年で、自殺を本気で考えるほど追い込まれた。
そんな岡本太郎に、友だちがいた。
唯一の友だちだ。
それは“太陽”だ。
太陽はいつも岡本太郎の上に輝き、明るく微笑みかけ、元気いっぱいに勇気づけてくれた。
岡本太郎は、いじめで死のうと思った。しかし、死ななかった。
大人になっても、タモリからいじめられた。
タモリは岡本太郎のものまねをしてバカにして、笑いを誘っていた。
埼玉は田舎、秩父は田舎、甲府は田舎。
そうやって、タモリは、「数が少ないもの」をいじめて、笑いを誘った。
まわりの圧倒的多数者は、楽な方、タモリの側にまわり、数が少ない方を見て、指差し、笑っていた。
それはいじめだ。
悪意はない。
ただの悪ふざけ。
カエルに、石をぶつける。
それは悪意ではない。
ただの悪ふざけ。
殺す気はない。
ただの遊びだ。
しかし、石をぶつけられたカエルは死んでしまう。
それが、いじめだ。
学校は、いじめはない、という。
悪意はない、という。
悪ふざけだと言う。
それは、その教師が、いじめられたことがなく、悪意はなく、親しさを持って、いじめていたからであり、その感覚をもったまま大人になり、教師という立場になっても自覚できない。
病気と言ってもいい。
そんな奴らが、教師をして、多額の税金をむしりとり、カネで多くの欲望を満たしている。
もちろん、そんな教師がすべてではない。
自分が楽しく笑っていたころ、岡本太郎は変人だと思った。
しかし、仕事を失い、多くを失い、しかしそれでも自分の信念を失わなかったとき、岡本太郎の作品が、太郎の言葉が、どの作品よりも、私の胸に重く響いた。
私は太郎と同じように、死ななかった。
そうして、今、小説を書いている。
次こそ、と思いながら。
はるとの写メ日記
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太陽はると