今日、会社の昼休憩にいつもランチで行く定食屋が閉店していたのを知った。
"閉店"の張り紙は貼ってなかったけど先週も閉まってたしほぼほぼ確定だろうな…。
そんな潰れるような雰囲気じゃなかったしそれなりに繁盛してる感じだっただけにびっくりした。
そこの定食屋は去年までは毎日行っていたけど、働き方改革で今はランチを挟む午前中からの勤務は週に1回だけになった。
それでも毎週通っていて、そこの焼肉定食を食べるのが週に1度の拓也まんのひそかな楽しみだったんよね(´-`).。oO
あの焼肉定食がもう食べられなくなると思うとかなじぃ…
小学校の頃のリコーダーに掘られてる自分の名前が達筆で渋くて明らか小学生が扱うような代物じゃない感が出てるぐらいかなじぃ…。
子どもの頃に親の付き添いでフリーマーケットに行って他のブースはゲームとかカードとかで子どもいっぱい集まって売れてるのに自分の親のブースはようわからん置き物や雑貨ばっかで全然売れてないのをブルーシートに座って見させられてる時ぐらいかなじぃ…。
せめて「〇月〇日をもって閉店します。」みたいなお知らせは欲しかったよ…。
女風の業界ってセラピストの数は多いけど売れてる人は一握りだしほとんどが知らずに消えていくんよね。
売れてるセラピストやそれなりに活動していたセラピストなら事前にSNSで「〇月〇日をもって退店します。」という告知があるだろうけどある日急に消えるセラピストが多いもんね。
それなりに活動していたセラピストでもやらかしたり身バレとかで告知無しで急に消えることだってあるしね。
そういったセラピストを指名し続けていたお客様もきっとこういう気持ちなんだろうな。
普段の生活の楽しみになっていて、いつものように当たり前のように予約しようと思ったら急にいなくなってるんだもんね。
向かいのホーム、路地裏の窓、そんな所にいるはずもないのに探すよね。
そりゃ山崎まさよしにもなるよね。セロリとかかじっちゃうよね。
でもどんなものにもいつかは終わりがある。
何かが始まればそれと同時に終わりが生まれる。
周りの景色だって身の回りの物だって命だってそうよな。
自分がそれを必要としなくなる時、あるいは自分の命が終わるまでは終わりを知りたくない事っていっぱいあるよな。
でも自分という存在が終わる前にいろんなものの終わりを見れたり知れるという事も大事なのかもしれない。
綺麗な終わりもあれば綺麗じゃない終わりもある。
生きてく中でいろんな終わりをたくさん見てきた人間が、"終わり"について考えられるし良い終わり方ができるのかもしれない。
そう考えたら自分の人生には終わりは必要だな。
自分が良い終わり方をするためにもいろんな終わりを見ておかないと。
今日拓也まんの楽しみにしていた週に1度の焼肉定食は終わった。
ただそれと同時に近くの定食屋でトンペイ定食が始まった。
焼肉定食の代わりになんてなれないのは当然。
物が違うんだから。
でも物や味は違えど要は美味しけりゃそれでいいんだよ。
焼肉定食に終わりがなかったら今日のこのトンペイ定職の美味しさの始まりには気づけなかった。
焼肉定食が終わらない間は他を見ようとしないし始めようとも思わないからね。
終わった時に気づいて別の何かが始まればそれでいいんじゃないかな。
そういった意味では自分の人生も終わってないうちはどうせ他に気付けないんだからあれこれ考えても仕方ない。
その時の成り行きに任せりゃいい。
自分の命が終わった時にいろんな事に気づくしまた新たに命が始まるんだろうね。
だから終わる時に気付けるのなら大きい終わりが来るまでにいっぱいいろんな終わりを見たり経験できるほうが良いよね。
そう思ったらもっと終わりに対して前向きになれるかもね(´-`).。oO
拓也
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