まずはじめに、私は全ての女性を"女の子"と定義している。
"女性"と表記すると大人の落ち着いた印象、"女の子"と表記すると若い印象を持つ方もいるかもしれないがそうではない。
女性はいくつになっても女の子なのだ。
その理由として、女の子という生き物は、いくつになっても可愛いキャラクターや「それは何色なんだ?」という淡い色や、花柄などを好む傾向にある。
これはさすがに「可愛い」と言わざるを得ない。
重ねて女の子はなぜか小さい物も好む。
思わず「一体何が入るんだ?フリスクか?」と男の好奇心をくすぐる小さいカバンに小さいハンカチ、小さいペットボトルの水など、全体的に小さい物を女の子はよく持っている。
人によったら「その量ならもう変わらんやん!?」ってぐらい小さい水筒に水を入れる女の子さえ存在する。
普通はカバンならなるべく物を多く入れられる方が便利であり、水筒も大きいに越したことはないだろう。
これは男にはあまり見られない事であり、胸がはちきれるほど可愛い特徴だといえる。
以上をふまえ、年齢に関わらず全ての性別で言う"女"という生き物は"女の子"なのである。
そんな可愛いが詰まっている女の子という生き物であるが、言葉ですら可愛いを表現してくるのには私もしばしば脱帽させられる。
そもそも"女の子"という響きがまず可愛いのだが、それにくわえて文でのやりとりで用いる絵文字ですら可愛いが詰まっているのだ。
女の子はよく文の終わりに四つ葉のクローバーやキラキラ、なぜか一つではなく二つ重なった音符やハートを用いてくる。
ハートに至ってはちょっと斜めに傾いていて、赤ではなくピンクのハートを用いる傾向にある。
「なぜ四つ葉なんだ?なぜキラキラしているんだ?なぜ真っ赤ではなくピンクで2つ重なったハートなんだ?」
と考えれば考えるほどまさに哲学であり、どの方面から考えてみても"可愛い"という結論に至る。
さらにもう一つ。
男の下着は"パンツ"と呼ぶが、女の子は"パンティー"と呼ぶ。
これはパンツよりもはるかに上品かつスタイリッシュな呼び方ではないだろうか。
また、"パンティー"という呼び方には大変エロスがあり、その奥深くにどこか哀愁すら感じる事だろう。
私が心からチラっと見たいと思えるのは後にも先にもパンティーと皆既月食ぐらいである。
ここまでくるともはや女の子は"人間"という枠を超えた別次元の生き物なのかもしれないとさえ思えてくる。
なぜなら私がそう思わざるを得ない理由が明確にあるのだ。
女の子はとにかく身体が丸い。生まれてくる前にやすりで削ってもらったのかというぐらい角がなく丸くて可愛い。
そして柔らかくてふわふわしている。
この女の子特有の体つきを見ると、「毎日マシュマロしか食べてないのか?」と疑問に思う程である。
私は、自分がこの世を去った時は、女の子のふわふわの太ももの上に自分の墓石を立てて欲しいと切に願っている。
髪の毛もなぜか広範囲でいい香りを漂わせるし、ぷにぷにしていて抱き着こうものならふわふわで天に召されたのかと思わず錯覚さえしてしまうだろう。
私はこの世に存在する"コットン"という素材は女の子の体から作られているのではないかとすら考えている。
少なくとも耳かきの上のふわふわの部分は間違いなく女の子から作られたものだろう。
そんな"女の子"という可愛い生き物をこの世に誕生させてくれた神様に感謝の気持ちを抱くと共に、女の子の心や体を満たす"セラピスト"という仕事を私は誇りに思う。
また、この世に生を受け、女の子の心や体を満たすという大変光栄な機会を与えられているという事は、間違いなく私の使命に値するだろう。
私はこれからも神に与えられしこの使命を全うしたいと思う。
レディース大学 女の子学部 可愛い学科
12期生 拓也
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拓也の写メ日記
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女の子という生き物について拓也