人が「快楽」を求めるようになったのは、種としての保存本能からかもしれません。
しかし、それを“意味あるもの”として意識するようになったのは、もっと後のことです。
古代ギリシャでは、快楽は“理性を乱すもの”とされてきました。
哲学者プラトンは、欲望に振り回されることを忌み嫌い、魂の三分構造(理性・気概・欲望)の中で、欲望は最下層に置かれました。
一方で、エピクロス派は「快楽こそが人生の目的」と説きます。ただし、それは刹那的な肉体の快楽ではなく、「心の平安(アタラクシア)」という、持続可能な喜びの追求でした。
ここに、快楽=低俗ではないとする哲学的な見直しが始まります。
やがて時代は進み、宗教が社会を支配するようになると、性と快楽は“罪”とされていきます。
中世キリスト教では、オーガズムは“堕落の象徴”でした。特に女性の快楽に関しては語ることさえ避けられ、「快楽の感受性」が否定されていったのです。
それでも人は、本能としてではなく、「何かを伝えたい」という感情の手段としての性を忘れませんでした。
現代になって、ようやく僕たちは、
性や快楽を「情報」ではなく「関係性」として捉え直すようになってきたと思います。
触れるという行為。
声が漏れるという現象。
目を閉じて、感じるという反応。
それはすべて、“自分がここにいる”という存在確認でもあるんです。
オーガズムとは、単なる頂点ではありません。
相手との距離、肌の温度、信頼の強さ、言葉を交わすリズム
それらすべてが“重なった結果”として現れる、生の一瞬です。
その一瞬に、何の意味があるのか?
哲学的に言うなら、「他者と繋がる」という経験を通して、人は“自分”という存在の境界線を超えていくのです。
つまり、オーガズムとは感覚の爆発ではなく、
存在の融解だと僕は思っています。
一瞬だけ、理性や時間の概念から解き放たれ、ただ“在る”だけの自分になる。
そう考えると、それは本能でも、罪でもなく、
人間に与えられたもっとも崇高な表現のひとつなのかもしれません。
「感じる」という営みの意味は、未だに完全には語り尽くせない。
けれど、だからこそ、僕たちは今日も“誰かと触れたい”と願うのかもしれませんね。
松井 蓮の写メ日記
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オーガズム(哲学的視点)-快楽と存在-松井 蓮