今日は長いですよー
たぶん過去最高に長いですよー
(お手洗いに行くなら今のうちですよー)
覚悟しておつきあいくださいねっ。
僕は大学では外国語に励み、
言語学を専門にしていました。
今の兼業のお仕事でも外国語を使っています。
高校卒業した頃は心理学に興味があったのですが、
だんだん自分の興味が人の心から言葉に移っていき、
この10年くらいはずっと言葉のことを考えていました。
それは言葉が好きだからです。
でも、言葉を学ぶことで、
言葉には伝えられないことがあると知り、
言葉の限界に気づくようになりました。
(“言葉”の定義は難しすぎるのでここではあえてぼんやりした意味のまま使います)
たとえば、「木漏れ日」という日本語があります。
僕の大好きな言葉です。
これは“翻訳できない”日本語として知られています。
(参考:『翻訳できない世界のことば』エラ・フランシス・サンダース)
木の葉の隙間から差す陽光。
それを“たった一言で”、一つの名詞で表現できるのは日本語だけ。
今年話題になった『PERFECT DAYS』という映画では木漏れ日が一つのテーマになっていましたが、
英語に訳すと「木漏れ日」は
“The sunlight that filters through the leaves of the trees.”
という感じで、どうしても説明的になってしまいます。
「見て、木漏れ日が綺麗だね」
と伝えたいとして、英語でたとえば
“Look ! The sunlight is beautiful.”
と言えば「陽光」が綺麗ということしか伝えられないし、
“Look ! The sunlight that filters through the leaves of the trees is
beautiful.”
なんて言うのはやたら長くなってしまうので現実的ではありません。
だったら
“Look ! That is beautiful.”
と一言 "that" に込めてしまえば、もしかしたら上手くニュアンスが伝わるかもしれない。
でもこれも、互いの波長が合わなければ違う風に伝わってしまうかもしれません。
自分が見ている木漏れ日の、その数メートル横にある信号機の色が綺麗だね、という風に伝わってしまうかもしれない。
別に「木漏れ日」を一言で表現できる日本語がすごい、ということを言いたいわけじゃありません。
他の言語には他の言語の、“翻訳できないことば”があったりします。
ただこんな風に、意図した段階、伝えようと思って言葉にした段階でいろんな“ズレ”が生じるということが、
たとえ日本人同士で日本語で喋っていてもよくある、ということを言いたいんです。
「言葉にすること」は常に、
「言葉にならないものを捨てること」と表裏一体。
であれば、全部まるっと伝えたいときに、
究極的には「言わない」のが唯一の方法です。
言葉にしてしまうことで、
言葉にならないものが零れ落ちてしまうのなら、
溢れる前に全部、自分の内に湛え、留めておく。
「それ」を相手が感じ取ってくれたら、
そもそも言葉なんて必要ない。そんな夢を見る。
赤ちゃん相手、動物相手にはきっと普通にやっていること。
汲み取る、というのは文字通り、相手の中にある水を掬い取ろうとすることです。
大人同士となると、つい手っ取り早く言葉に頼ってしまう。
自分を差し出すのではなく、相手を受け取るのではなく、
誰のものでもあるようで誰のものでもない“言葉”に代弁させようとする。
僕らは人と出会うとき、
よほど親密にならない限りこうやって言葉のバリアを張ってしまうけど、
自分をまるっとそのまま、
相手をまるっとそのまま、
交換することはできないんだろうか?
女風では、それができるような気がしています。
アンモモには初回施術にコンサルテーションの時間がつきます。
それだけ会話を、言葉を大切にしているということ。
でもその後も、“言葉を使わない会話”は続きます。
言葉、という記号的な情報だけじゃなく、
身体が発する信号の絶え間ないやり取り。
空を見上げるときって、
一点を見つめるというよりただ、ぼんやり全体を眺めたりしますよね。
言葉が間に入るとつい一点に集中してしまうけれど、
目の前にいる人をまるごと、空を眺めるときのように見る。
そんなこともできるんじゃないかと夢見ています。
、、、
長くなりました。
お手洗いに行ってから読んでくれた方も、
お手洗いの中で読んでくれた方もありがとう。
ふゆきでした( ´◡‿ゝ◡`)
中原 ふゆきの写メ日記
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No.148 言葉を使わない“会話”中原 ふゆき