自責と他責…
ふむ、久々にちょっと硬めのテーマですね。
なにか困ったこと、大変なことが起こると、
人はその責任をどこかに見出そうとします。
今日は雷が鳴りましたね。
雷も、昔まだ科学が未発達でその正体がわからなかったとき
怒った神の仕業だとして「神+鳴り」→「雷」となったのは有名な話です。
理由や原因のわからない不幸は怖い。
だから、すべての不幸、トラブルには原因、言い換えれば「責任」がある、
と考えるのが人の自然な考え方です。
「雷」やその被害の責任は神様にある、さらには、神様を怒らせてしまった私たち人間にある。
そう考えることで行いを正せるわけですね。
まったく原因のわからない問題を前に為す術なし、というのは人にとって最大のストレスですから。
問題は、その責任をどこに求めるか、だと思います。
たとえばあなたが友達の誕生日ケーキを持って歩いているとして、
その前をスマホを見ながら歩いてくる人がいるとして、
ぶつかってケーキを落としてしまったらそれは誰の責任なのか。
普通に考えればスマホを見ながら歩いていた相手が悪いです。
でも、それに気付けなかった自分の不注意もあるにはある。
自責傾向の強い人は、ここで必要以上に自分を責めて、必要以上に凹んでしまうと思います。
優しい人ほどそういう傾向がありますよね。
自分を責めるのが悪いわけでも、
他人を責めるのが悪いわけでもない。
自分であれ他人であれ、悪いのは責め過ぎること、本当は悪くないのに責めてしまうことです。
相手が本当に悪ければ責めたってっいいし、
自分が本当に悪ければ反省しなきゃいけない。
なにか問題が起こったときの責任の所在、
その配分を見極めるのが(難しいけど)いちばん大事なことなんだと思います。
それに、責任というとネガティブなイメージがつきまといますが、
英語の responsibility という単語は必ずしも悪い意味ではありません。
この単語は response(返答、応答)+ ible(可能)+ ity(名詞をつくる接辞)
という風に成り立っていて、そのまま訳せば「応答可能性」みたいな意味です。
「応答可能性」、ちょっとかっこよくないですか?
責任がある、というのはつまり、なにか問題に応える義務が、能力があるとみなされることです。
つまり自分に責任がある、
というのは言い換えれば、
自分でなんとかできる、という意味。
自分に何をどうできるのか、
他人に何を任せられるのか、
それを見誤らなければ
自責も他責も不要なストレスがなくなりそうですね。
今日はちょっと真面目な感じでお送りしましたが
さて、このうだるような暑さの責任はいったい誰にあるんだい?
ふゆきでした( ´◡‿ゝ◡`)
中原 ふゆきの写メ日記
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No.91 自責と他責中原 ふゆき