子どもの頃、テレビを見ながら一家団欒の時間を過ごしていると、突然大人のキスシーンが流れ出した。当然だ。だって見ているのは月9だからね。そりゃキスシーンの一つや二つあるだろうよ。
結構過激なキスシーンだった。
でも父はテレビを見つめたまま何も言わない。母は黙々とご飯を食べている。妹も黙りこくっている。僕だって、「え!みてみて!チューしてるよ!」なんて言えるわけもなく、目線をテレビに固定させ、あたかも「動じてませんよ」という体を装い、ポーカーフェイスを貫いた。
つまり、家族全員で気まづい空気を作り出していたのだ。
こうした家庭環境で育った僕は、その反動なのかなんなのか知らないが、とにかく思春期の頃からエロに対する興味が人一倍あった。
でもそれは何もおかしいことじゃない。性に興味を持つことは人間ならば不思議なことではない。(もちろんアセクシャルの方も一定数はいるけどね)
紀元前古代エジプトの時代からポルノ壁画はあったし、青銅器時代の少女も勝負下着を履いていたらしい。紀元前のエトルリア人にいたってはSMプレイを楽しんでいたという。
そうだ。昔も今もみんなエロかったんだ。
かくいう僕も、性を楽しんでいるひとりの青年にすぎない。
そして、僕はもっと性を探求したい。
大好きなエロを深めたい。
事実、ここ最近の僕はかなり冒険してる。ここではちょっと言えないようなことを試してみたり、実験してみたり、勉強してみたり。世間一般で言われてる「変態」的なことを片っ端から試してる途中です。もちろん、やってみてハマることもあれば、全然ピンと来ないものだってある。
もはや、性の探求(性癖の探求)が趣味みたいになってる。
ただ、こうして僕は性を探求することができているけど、
一方で、性を謳歌することは非常に難しいことでもある。
*◆「性」は多様すぎるので前提条件が揃わない*
「性」は非常に多様だと思う。多様すぎる。
人の身体も多様、性癖も多様、感じ方、考え方、生い立ち、後天的な経験、すべてが多様。
たとえば、人の身体。有名な女性の性感帯に「Gスポット」ってあるけど、人によってはGスポットがない人もいる。最近の研究だと、Gスポットという性感帯は存在しなくて、「CUV複合体(クリトリス・尿道・膣の頭文字)」であるという研究もある。真相は定かではないけれど、とにかく多様だ。
性癖だって多様だ。そもそも性癖とフェチの違いは何か?とか、アブノーマルってどこから?とか、考え出したらキリもないし、定義もない!
つまり、「性」って、両者間で前提条件を揃えて話すことが非常に難しい論題なんだと思う。
多様すぎるからこそ、性に関する言説は多数派に偏ったり、抽象的になりすぎて訳わからなくなったりする。
それでいて、非常にセンシティブでデリケートな話題でもあるから、感情と切り離して冷静に話し合うのが難しいテーマでもある。
だから、たまに夫婦間・カップル間でセックスについて話し合ってます。という方にお会いすることがあるけれど、本当にすごいことだなと思う。普通なかなかできない。
ただそれができるのが「女風」っていう場所のはずなんだけど、でもセラピストによって接客方針が全然違うから、それも一概には言えない。というのが現状。
つまり何が言いたいかというと、今回の日記のテーマは「性」に関することだから、ゆる〜く読んでほしい。ってことです。「この人なんか言ってるな〜」くらいのテンションで読むのがちょうどいいと思います。共感できることには共感してもらえればいいし、共感できないことには、そういう考えの人もいるのね〜、くらいの気持ち。
性に関する言説は、自分ごととして捉えると辛くなっちゃったりするから。
でも、もし僕の日記を読んで、ざっくりでもいいから「性を楽しんでみたいな」と思ってくれたら僕も嬉しい。
*◆きっと僕たちは、まだ自分の性癖に気付いていない*
「自分の性癖って、よく分からないの…」と感じる方は多いと思う。
性癖って、やっぱり少しずつでもチャレンジングなエロをしないとなかなか気付けないもの。
だって、例えばパートナーさんといつも通りの普通のセックスをしていて、突然「ハッ…!私は野外プレイが好きなんだ…!!」なんて、神のお告げが降ってくることはない。多分。
野外プレイにチャレンジしてみて、はじめて「野外が好き」ってことに気付くわけだから、やっぱり誰かと「試す」「試してもらう」ってことが大事になってくる。
このことも「性を謳歌するのが難しい」理由のひとつだと思う。
なかなか普段の性生活で、挑戦的なエロをすることって少ないと思うから。まあ人によると思うけど。
でもそれが出来るのが「女風」。なのか?
僕個人としては、やっぱり「少しずつ」新しいことを仕掛けていって、女性ご自身でもこれまで知らなかった気持ちよさとか、興奮を知ってもらいたいと思ってやってる。
炒飯を大皿でどーん!!と出して、これ美味いだろ!!全部食べろ!ってやるんじゃなくて、
エビチリとか、玉子炒めとか、麻婆豆腐とか、小皿でいろいろ出していって、どれが一番美味しい?っていうスタンス。その方が、自分の好みの味を見つけやすいと思うから。
こうして好みの味(性癖)を見つけやすいようにしていけたらいいなと考えてやってます!!
でもまだまだ問題はある。
仮に自分の性癖らしきものに出会えたとしても、それを受け入れて楽しむに至るまで、時間がかかるケースもあると思う。
性癖を自認したところで、それを他者に開示することは怖いことだと思うから。
「性癖」「フェチズム」って、自分の輪郭の内側にあるものだから、それを見せたときに、もし否定されてしまったら、まるで自分自身を否定されたかのような気持ちになる。ものすごく傷つくし、すごく恥ずかしい気持ちになると思う。
だから、性癖って開示するのが難しい。
でももし自分の性癖を、心置きなく開示できる相手に巡り会えたらそれはとっても幸運だし、その関係性はきっと稀有なものだと思う。
ちなみに、僕がよくいただくご質問で「何を言っても引きませんか?」と、不安な気持ちをぶつけていただくことがあるんだけれど、
答えとしては「絶対に引きません」。
これには明確な理由があって、
僕は自分の想像力を過信していないから。
というのが理由。
自分の想像力を過信している人は、例えば自分の想像の範疇を超えたものに出会ったら受け入れられなくなる。受け入れられないものに対しては、否定するか、攻撃するしかできない。
でも、自分がこれまで生きてきた世界は狭い。自分の想像力なんてちっぽけなものだ。っていう前提があれば、どんなものに出会ってもフラットに受け止めることができる。僕はそう思ってる。
だから、もし引かれないか不安な気持ちがあるなら、勇気を出して伝えてくれたら嬉しいなと思う。もちろん無理にとは言わないけど。きっと伝えられたら楽になれるだろうと思うから。
*◆性を謳歌するということ*
「性を謳歌する」ってどういうことかな?って考えてみたんだけど、本当の意味での謳歌、っていうのは、
『ありのままの自分をぶつけ合えること』なんじゃないかな?
この人の前だったら、自分は自分で居られる。そういう安全地帯みたいな場所を持つことは、きっと素敵なことだと思う。
でも一方で、ある種自分を部分的に繕って、自分の見せたい部分だけを開示した上で性を楽しむことも、それもひとつのやり方だとぼくは思う。
別に全てを開示する必要なんかなくて、一定の距離を保つことを大事にする。つまり、無理に性癖を見せあったり、自分の内側の部分は隠しつつ、心理的ダメージを負うリスクも回避しつつ、上手に性を楽しむ。これもまたひとつの在り方だと思うし良いと思う!!
これもまた多様性ということなのかもしれないね。
はい!ここまで長ったらしい山田えいとの文章を読んでくれた、あなた!!ありがとう!!!!
僕の迷い、僕の望み、僕の経験、いろんなことを考えながら書いてみました。
僕たちはこれからも迷いながら苦しみながらも、性と向き合っていくんだろうな。
性は、僕たちが一生付き合っていくものだからこそ、大切にしていきたいですよね。
山田 えいとの写メ日記
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性を謳歌することの難しさとその喜びについて山田 えいと