世界の皆さん、こんにちわ
(以下、いつにも増して自己満足日記ですのでご容赦ください。笑)
人生は決断の連続でありますが、自分の決断が果たして合っていたのかどうか、振り返って答え合わせをしたくなるときがあります。
今、「そんなことある?」って思った方は、
現状を受け入れる能力が極めて高い、
事態を許容できる器が大きい、
目指すべき目標地点まではすべて過程であると割り切っている、
そんな心持ちが常なのだと思います。
そういう方の場合は振り返ったりすることはないのかもしれません。
が、ほとんどの方は少なからず「これで良かったのか?」と考えて振り返ったことがあるのではないでしょうか。
そんなとき、僕たちは未来の予測に基づいて評価(振り返り)しがちではないですか?
未来は予測不能であり、その結果を決めるには「今」以降という極めて不確定な要素に左右されます。
「未来がこうなるかもしれない」→「だからこの決断は間違っていたんだ」で一喜一憂するのは、実は筋が通っていないと僕は思っています。
僕はむしろ、その決断をするに至った、「時間」や「決意」に対してリターンできているか、で評価すべきと考えます。
「時間は有限である。」 よく聞く言葉ですね。
では何故、時間が有限であると認識しなければならないのでしょうか。
「時間」は「観測」とセットです。
「観測」すなわち、事象が変化することこそが時間の経過を意味します。
時計の針が一分一秒と右へ動くこと、これが一番わかりやすい例でしょう。
我々人間に置き換えるとどうでしょうか。
観測の最終地点、そこには「死」があります。
時間の経過とともに、我々は年老いていずれ生命が途絶えます。
そうなれば、全てを知覚することができなくなります。
己という存在すら知覚できなくなるのです。
そこに確かに「有」であった自分が「無」になる。
「無になる」とは「無」が「無」であることすら認識できなくなるということです。
全てを知覚できる「今」が永遠ではないこと、それを心しておくために、時間が有限であると認識しておくべきなのでしょう。
話を戻しますが、
自分が今いる地点は、決断の連続で自らが選んだ地点です。
人生の限られた「時間」を投資して、そこに立っているわけです。
決断するにあたり、悩んだ時間、決めた覚悟、過去の自分が未来(今)の自分に託した期待があったはずです。
その過去の自分の期待にリターンできているか?
そこで評価する方が、明確だし筋が通っていると思うのですがいかがでしょうか。
(そんなことよりラーメン食べたい)
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世界の写メ日記
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時間は原資である世界